『愛と誠』2012年(日)
監督:三池崇史
脚本:宅間孝行
キャスト:
妻夫木聡
武井咲
斎藤工
配給:角川映画=東映
上映時間:134分
1974年にも映画化された梶原一騎原作の漫画「愛と誠」。本作が二度目の映画化である。登場人物たちが歌い踊り出す歌謡映画(ミュージカル?)でありながら、アニメーションやコント劇も披露され、70年代に見た青春映画とヤクザ映画の系譜をたどっていき、漫画的なツッコミや『クレヨンしんちゃん』に登場するかのようなキャラクターたちが恋のサバイバルの中で混在する本作は、大船を漕ぎながら現代日本映画の一つの潮流を堂々とわたっていたように思われる。すなわち混成映画の潮流である。
これまでも他国のジャンルに見られる約束事を柔軟に取り入れていった混成映画は数多く存在したが、青春映画やヤクザ映画、あるいはミュージカル映画を混合させるだけでなく、テレビのバラエティ番組に見るコント劇(スリッパで頭を叩く。ビンタでメガネが吹き飛ぶといった一連のギャグ)やテレビ放送アニメ番組で頻繁に用いられるささやかなツッコミ(例えば「どうして助けに来たの!?」「だから助けに来てねぇし」)を大胆にコラージュした現代日本映画作品はほとんどなかったのではないだろうか。
だがテレビ作品と映画作品の境目が希薄になりつつある今日の日本映画の現状を考えれば、バラエティ番組のコメディやプロモーション・ビデオのような歌謡シーンを重要な要素として映画作品に取り込むことは、とりわけ不可思議なことでもないように思われる。そういう意味でも本作は、コラージュ性に溢れた混成映画として十分な価値を秘めていると言えるだろう。しかし混成映画で問題になってくるのは、それらコラージュする要素をいかに混ぜ合わせるか、という構成力の問題である。次項では本作におけるミュージカル(歌謡ショー)に焦点を当てながら、ユーモアあるいは複合的要素として巧く機能しているかを見ていくとしよう。
■ミュージカルというユーモアを生み出すには?■
本作はアニメーションから始まり、すぐに実写へと移行する。妻夫木聡演じる誠が登場するや否や、彼は突然情熱的に唄い踊りだす。周りの男たちも彼に合わせて踊り、背景の美術はまるでPVのようなセット美術として強調されている。このオープニングは明らかに滑稽なユーモアとして構築されていることがわかる。
不良青年が「黒い瞳の誘惑~♪」とポーズを決めながら唄い、喧嘩を繰り広げる描写は、明らかに笑いを取ろうとしているし、武井咲演じる早乙女愛が唄う『あの素晴らしい愛をもう一度』でも「愛を~」の歌詞のところで滑稽なポーズをする。また岩清水が情熱的に告白する『空に太陽がある限り』では笑いをとろうとしていることがより明白となるではあるまいか。しかし滑稽なユーモアを生み出すために構成されているこれらの歌謡ショーが果たしてユーモアとして有効に機能しているかと言えば構造的には疑問である。
そもそもミュージカルや歌謡ショーといった〝突然歌いだすこと〟を滑稽なユーモアとして描くには、まず何よりもその作品が(あるいは主人公や登場人物が)まさか歌を唄いだすとは思えない状況を作ることが重要であるように思われる。この点を大変に巧く構成していたのが、エログロ・ナンセンスの変態ホラー映画『発狂する唇』(00)である。『発狂する唇』では、序盤でキャラクターたちによる馬鹿げたユーモアを繰り出し、究極のエロティシズムを見せつけた後、中盤でミステリーとナンセンスなギャグを推し進め、突如ヒロインが公園を歩きながら歌謡曲を唄いだすと何故か終盤では殺された被害者の遺族たちによる壮絶なカンフー・アクションが繰り広げられるという荒唐無稽な展開を見せる。序盤の展開で観客が想像した世界観を心地よく裏切ることによって、歌謡ショーとカンフー・アクションを笑いへと昇華させているという物語構成の点で、『発狂する唇』は非常に巧妙であったと言えるだろう。このことからもわかるように、〝突然歌いだすこと〟を滑稽なユーモアとして描くには、観客にミュージカル場面や歌謡ショーのシークエンスを悟らせないことが何よりも重要なのではないだろうか。
しかし本作『愛と誠』は、前述したようにオープニングで早くもミュージカルを披露し、本作がミュージカル仕立ての青春映画であることを悟らせてしまうではあるまいか。そうすると観客は「本作は登場人物たちが突然歌を唄いだす映画だ」と認知し、後に登場人物が唄いだしても滑稽なユーモアに必要な〝違和感〟を抱かない傾向にある。そのため懸命に滑稽なユーモア、あるいは観客を笑わせるためのギャグの一環として演出されている歌謡シークエンスを繰り広げれば繰り広げるほど、観客はしらけてしまう。
しかも歌謡曲を唄うにしてもミュージカル映画のように長いから致命的である。本来ミュージカル映画は、歌やダンスといったパフォーマンスを魅せるものであって、滑稽さを生むものではない。そのため歌を一本唄っても問題はないし、むしろ全て唄いきることが望ましい。しかし本作は明らかに滑稽なユーモアを効果として狙っているわけだから曲を全部唄う必要はない。だが本作は歌謡曲を幾度となく最後まで執拗に唄ってしまうのだ。だから馬鹿馬鹿しく感じて笑っていた観客も途中で笑いを止め、眺めるしかない。そこに退屈さが生まれる。
もちろん観客の中にもこの歌謡シーンで終始笑う人もいるだろうし、筆者はなにも観客の映画体験を否定するつもりはない。ただ脚本構造の観点からすれば、歌謡ショーを滑稽なユーモアとして演出する際の脚本構成としては破綻していたように思えるのだ。ミュージカル要素を取り入れるなら、あれだけ執拗にする必要もなかった。精々ヒロインの早乙女愛が『あの素晴らしい愛をもう一度』を歌うシーンだけで良かったように思う。そしてラストの対決でもっと馬鹿げた荒唐無稽のアクションを繰り広げても良かったように思われるが、たしかに全国劇場公開用映画としては、この程度の荒唐無稽さで止まってしまうのも致し方ないと言えるだろう。
だが前述したように本作は、大胆なコラージュを試みた混成映画としては大変な意義があるように思える。統一感や構成力は認められないが、テレビと映画の魅力的要素をふんだんに盛り込んだ度胸は、我が道を行く三池崇史監督ならではの大胆なオリジナリティと評価することができるだろう。テレビと映画の混成映画、21世紀初期の日本映画を象徴するような一品であった。
後藤弘毅
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■