『テイク・シェルター』 Take Shelter 2012年 (米)
監督・脚本:ジェフ・ニコルズ
キャスト:
マイケル・シャノン
ジェスカ・チャスティン
シェー・ウィガム
配給:プレシディオ
上映時間:120分
田舎町の工事現場で働くカーティスはある夜、大規模な自然災害が町を襲う悪夢にうなされる。悪夢の中で見る巨大な竜巻、黄色い雨、狂人と化した住人達。繰り返されるリアルな悪夢に彼は次第に囚われていき、家族を守るために災害用シェルターを造ることに没頭し始める。
第64回カンヌ国際映画祭批評家週間グランプリを受賞した本作は斬新なディザスター映画としてしばしば捉えられる。たしかに本作は自然災害の脅威を描くディザスター映画の形式を採用しており、一見するとVFXを多用したアクションが期待される。しかし本作は、そうしたディザスター映画の形式を採用しながらも実際は、父親が一家の支柱として機能しなくなった家族の崩壊と葛藤、そして再生を描いた人間ドラマに重点を置いているのではないだろうか。
本稿では、従来のディザスター映画との相違やトリッキーな悪夢シーンを分析しながら、本作がいかなる構造によって人間ドラマを形成しているかを検証していく。
■本当にディザスター映画か?■
本作において悪夢のシーンは重要なモチーフとなる。悪夢シーンは、これまでもブライアン・デ・パルマ監督の『レイジング・ケイン』(92)やクローネンバーグ監督の『ザ・フライ』(86)など数々の映画作品によって、とてつもないショックと恐怖を与える恐怖描写として演出されてきた。悪夢シーンは、それ自体のインパクトが強いため、本来であれば一つの作品の中で二度が限界として慎重に演出されてきたように思われる。三度、四度、悪夢の描写を繰り返すと観客も悪夢の描写に敏感になり、少しでも不可思議なショット繋ぎや伏線を差し込むとすぐに暴かれてしまい、陳腐なショックシーンになりかねないからだ。だが本作はあからさまに悪夢と判別できる悪夢シーンを数多く繰り返す。そこにはもはや強烈なショックなど皆無である。どうやら人間たちがクレイジーになり、世界と家族が崩壊することを予見するのみだ。ではこの悪夢シーンは意味がないのかと言われればそういうわけでもない。
これらの悪夢シーンが本作においてどのような機能を期待されて演出されているかは、「悪夢の出来事」ではなく、「悪夢を見た後の出来事」に着目すれば明らかである。悪夢のシーンの後、ヒステリックで、寡黙で、頼りない本作の主人公(父親)がどうなっているかと言えば、彼はますますヒステリックかつ誇大妄想に陥っていくではあるまいか。彼の病(?)は着実に進行し、幻聴や幻覚、苛立ちが募り、コミュニケーションとコミュニティを欠いていく過程が静かに描かれていく。孤独ゆえの募りは、食堂で爆発し、彼は豹変するのだ。
そして悪夢を重ねていくたびに、募っていくのは彼の妄想癖や孤独だけではない。悪夢を重ねていき、家族の支柱である父親の精神が崩壊していくことで、家庭の経済状況もより厳しくなっていく。特に幼い娘が聴覚障害者であり、手術が待機しているという設定が、彼らの経済的なひっ迫状況をより一層露呈させるだけではなく、娘の手術よりもシェルターを作ることに専念する父親の非道徳的な行動の異常性、そして夫婦間の信頼関係が失われてもやむを得ない状況をより一層明確にしていたように思われる。これらドラマ性の構築を考えても本作において「サスペンスがない」「ディザスター映画として迫力がない」「悪夢が怖くない」という意見は少し的外れだと指摘することができるだろう。
まさしく本作は従来のディザスター映画のように恐怖やスリラーを見せて惹きつける類の作品構造をしているわけではなく、むしろ家族の葛藤と再生を静かに描いた人間ドラマの構造を持った作品と言える。次項では本作の構造が人間ドラマに置かれていることを前提とし、本作が本当に人間ドラマとして機能し、構造が破綻していないかを分析してみたいと思う。
■家族の葛藤と再生、そして…■
彼らの経済状況がひっ迫し、聴覚障害を抱えた娘をきっかけにして夫婦間の信頼関係が崩れていく過程が、彼の誇大妄想癖(悪夢の連続)と共にじっくりと描かれていることは前述した通りである。そこで最も注目するようになるのは、家庭が破綻した彼らの行く末ではないだろうか。
シェルターに避難した彼らは眠りにつき、翌朝になって目覚める。そこで妻である彼女は夫に語りかける。ガスマスクを付け、異常なまでの執着を見せた夫の姿に悲観するわけでもなく、彼女はあくまで献身的に愛を注ぐのだ。観客はすでに彼の誇大妄想に呆れ、落胆し、苛立ちさえ覚えているかもしれない。しかしそうした観客の彼に対する眼差しを見計らって(もちろん劇中の人物が観客側を覗いているわけではないが、作者によって観客が彼に対し失望させられ、苛立ちを覚えるようにコントロールされているということだ。我々は、自発的に妻の献身的な愛に驚かされ、その愛の深さに感銘を覚えているように思われるかもしれないが、実は、ある構造のもとに我々は誘導されており、彼女の愛に驚嘆するように仕向けられている。それが本作の構造の緻密さでもあるだろう)、妻は優しく彼に語りかける。「扉を開けて」と。
もちろんここでの「扉」とは「心の扉」でもあるだろう。「シェルター」自体が本作においては「心のシェルター」という彼の精神的な病に他ならない。そう、本作は脚本の構造的に「精神的な病に侵された夫を献身的に支える妻と精神病に苦しめられる夫。この夫婦のドラマであり、家族の葛藤と再生を描いている」と言える作品なのだ。主人公が自らの手で扉を開けようとするシーンでは、〝娘を抱っこして父親を静かに見つめる妻〟の肖像が、〝夫の再生を見守る妻〟の肖像として暗喩的に魅せられる。そして扉を開けることでついに彼の心は解放されたのだ。
実際に扉を開けるシーンは、サスペンス性のある表現手法で構築されてはおらず、非常にドラマティックで壮大な復活のサウンドとしてイメージされる音響表現となっていたように思う。扉を開ける以前の「あなたが開けないと意味がない」という台詞によって、彼の誇大妄想であることが明かされている表現構造からみても本作は、サスペンス性を意図的に排除した家族再生のドラマとして演出されていることがわかる。そういう意味でも家族の葛藤と再生をディザスター映画の形式の中で描いた秀作として位置付けることができる「表現の構造」を緻密に保っていたように思われる。そう、ここまでは…。
■構造の破綻■
ラスト、ビーチで遊ぶ主人公と娘。嵐がやってきて、黄色い雨が降り、竜巻が見える。妻は正夢となったその光景に彼の悪夢が予言であり、病気ではなかったことを確信する。このラストにおける極度の逆転は一体何だろうか。これまで彼が誇大妄想癖を持った精神病者であること、つまり家族の支柱を失うことで家族ドラマが成立してきた。しかも家族の再生という最も好意的な結末を迎えたにも関わらず、本作はラストで「彼は実は予言者であった」ということを告げるのだ。
彼が予言者であったことが判明することによって、これまで築かれてきた「家族の葛藤と再生のドラマ」という作品全体の統一感が一気に崩壊してしまう。誇大妄想によって家族が崩壊し、再生するドラマとして終わらせておけば構造として一切破綻することはなく観客もスッキリとした面持ちでエンドロールを眺めることができただろう。しかしラストでSF映画の約束事のような展開を付けたことにより、観客は夢オチ的な落胆と幻滅に襲われるかもしれない。これまで築いてきたドラマを全て否定してしまうラストは、あまりに失望的。ラストにおいて究極の破綻を見せてしまった本作はとても惜しい問題作であったように思われる。
後藤弘毅
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■