ビョークは難しい題材だと分かっていました。
どのアルバムを取り上げるかで迷うというより、そもそも彼女を「どう捉えるのか」が悩ましい問題なのです。
ただ「何故悩ましいのか」は非常に簡単。ビョーク自身の言葉を借りるなら、「ロックンロールというファミリーツリーには属していない」からです。それだけではありません。「ポップミュージックでさえない」と言及するに留まらず、「エレクロトニック・ミュージック」と「クラブ・カルチャー」に属していると、彼女は明快に自答しているのです。
その自己分析は、1970年代半ばに生まれ、ロックンロールやそこから派生する音楽、またその起源となる音楽を摂取してきた私を戸惑わせます。別に「エレクトロニック・ミュージック」を聴かないわけでも、クラブに行かないわけでもありません。ただ、ロックンロール的な価値観が不要ではないにせよ、無くても特に問題がなさそうな世界に、どこかしら躊躇してしまうのです。(年齢の問題ではない、と信じましょう。ビョークは私より十歳近く年上なのですから……)
しかし、です。とても陳腐な結論ですが、そんな彼女の態度、そして作品はとても魅力的。そこにはロックンロールが、ジャズが、ブルースが、パンクが、ファンクが、ハウスが、どうしようもなく輝いていた頃と同等の光束が存在しています。
特に初期のアルバムの華々しさたるや。次作の『ホモジェニック(Homogenic)』と随分迷いましたが、今回取り上げるのは二作目の『ポスト(Post)』です。
ヴォーカルの殆どを海岸で録音した、という美しいエピソード。小型のマイクを携え、カリブの島国・バハマを彷徨い、よく海の中に駆け込んだというビョーク。静かなパートではうずくまり、強烈なパートでは駆け回った、という彼女の姿を思い浮かべたなら、迷う理由はありません。
エレクトロニック・ミュージックかロックンロールかはさておき、さあ、とにかく聴いてみましょう。
1.声
まず、あの声に触れないわけにはいきません。余分な形容詞など要らないでしょう。「あの」声です。
個人的な意見ですが、あの声さえあれば、相当な駄曲であってもうっとりと聴き続けられます。ヴォーカルトラックを、他の音色に埋もれさせない限りは。
いつでも彼女の声は揺れています。他の音色の動きと関係なく、独自の周期で揺れ続けているのです。一つの楽曲の中でも、その周期は自在に変更可能。ゆっくりと穏やかにそよいでいた次の瞬間、音階には換算不能な叫びに突然変化し、一気に周りの空気を震わせます。とても不思議な声だな、と初めて聴いた時に思いました。その印象は今も変わりません。身も蓋もない言い方ですが、珍しい声です。
では、近い雰囲気を持つ声はあるのでしょうか。斡旋屋として、何人か思い浮かぶ女性を挙げてみましょう。素朴な直感では、アイルランドのバンド「ザ・クランベリーズ」のドロレス・オリオーダン(周囲からはあまり賛同されないのですが……)。声質もさることながら、全体の雰囲気を加味してパティ・スミス、そして女性パンクバンドの先駆け「スリッツ」のアリ・アップ。日本に目を向けると、少々脱線気味ですが、オノ・ヨーコ。完全に脱線して極北を目指すなら、世界初のノイズバンド「非常階段」のスクリーマー(!)、JUNKO――。
独立/自立、という言葉が連想される顔触れになったのは、声に着目したからでしょう。楽器に比べて、声は演者の性質が透けて見えやすい。ジミ・ヘンドリクスのようなギターを弾く人を集めて並べてみても、その顔触れにあまり統一感はないような気がします。
本作の一曲目「Army of Me」のような、威嚇的なビートが前面に出る楽曲において、彼女の声は決められたテンポの間をすり抜けていきます。強制的なリズムから独立/自立するように、と表現するのは御手盛りでしょうか。けれど八曲目「Possibly Maybe」、更に分かりやすく三曲目「The Modern Things」のように、彼女の声が主たる旋律を提示した瞬間、一気に楽曲全体が色づいていく感覚は、やはり独立/自立の印象を鮮やかに突き付けてきます。
【Kiss Kiss Kiss / Yoko Ono】
2.テクノロジー
本作は1995年の作品ですが、当時から現在に至るまで、声はもちろんのこと、ルックス、ステージング、言動、プロモーション・ビデオなどから受ける彼女のイメージは、変わっていません。「ちょっと風変わり」という少し遠慮がちなものから、「妖精のような少女のような女」という無自覚に差別的/欠伸が出るほど紋切型なものまで、程度の差はあれ大体一致しています。
ただ実際の姿はそんなイメージを裏切るかもしれません。少なくとも私は裏切られました。
結論から述べると、前作『デビュー(Debut)』から彼女は、自分の音楽に関してプロデュースに関わっています。複数の優秀なスタッフが制作した音楽に合わせ、ただ歌うだけではありません。楽曲制作のすべての過程に参加しているのです。
作業を共にしたクラシック・パーカッション奏者のエヴェリン・グレニー(聴覚障害を持つグラミー賞受賞者)の言葉を借りれば、彼女は「新しいものに対して完全にオープン」。様々な方法を何でも試すといいます。重ねてビョーク本人の言葉も借りてみましょう。それも最新のものを――。
本稿を執筆している2016年、50歳になった彼女はテクノロジー系の企業から様々なアイデアを提案され、「完全にオープン」な態度で対応しています。
テクノロジーを「21世紀の新しい楽器」と考える彼女は、アーティストの役割をこう定義します。「新しいテクノロジーに命を吹き込むこと、魂を注ぎ込むこと」だ、と。
この項で紹介するのは、50歳になった彼女が毎日取り憑かれたように聴いていたという、ジェイムス・ブレイクの楽曲です。
【Radio Silence / James Blake】
3.エレクトロニック・ミュージック
エレクトロニック・ミュージックの全容を説明することは困難ですが、本作における役割であれば私なりに確認している構図があります。
本作に収録された楽曲は、ドラム&ベース&ギター&鍵盤にヴォーカルが乗る、という演者の姿が想像しやすい音楽ではありません。雑に言えば「何だかよく分からない」音色が溢れています。例えば五曲目「Enjoy」。不穏なイントロの音色を、言葉で説明するのは困難でしょう。
演者の姿が想像しづらい分、知らない映画――四曲目「It’s Oh So Quiet」の強烈なインパクトのせいか、1950~60年代、所謂黄金期のミュージカル映画――のサウンドトラックのように響く瞬間も少なくはありません。本作を聴いた当時、意外だったのはエレクトロニック・ミュージック「なのに」どこか懐かしい感触(特に後半、六曲目「You’ve Been Flirting Again」以降)があることでした。私事ですが、歌声を聴いても意味がちゃんと理解できない、という逆説的な「利点」も加勢しているかと思われます。
【America / from “West Side Story”】
4.パンク
ビョークはテクノロジー系の企業からの提案にはオープンですが、大企業からのオファー(CMへの楽曲提供/ツアーの協賛等)はすべて断っています。その理由は明瞭。「精神はずっとパンクだから」。
パンクスとしての彼女のスタートは13歳。故郷のアイスランドで、髪を短く刈り込み、眉毛を剃り落し、女子だけのパンクバンドを結成。次に加入したバンド、タッピ・チーカラス(あばずれ女のケツの穴にコルク栓をしろ、の意)を経て、ククルという六人編成のバンドを作り、二枚のアルバムをクラスレコードからリリース。このクラスレコードというレーベルを運営していたパンクバンド、クラスがパンクロック史上とても重要なのです。
セックス・ピストルズやクラッシュやダムドが「表」の顔なら、クラスは「裏」。反戦/反核/反動物実験/反キリスト教を掲げ、直接行動をも辞さないパンクロックの精神的支柱です。
お察しの通り、クラスレコード界隈で一番有名になったのはビョークですが、いまだに「精神はずっとパンク」と言えるだけでなく、その言葉を空回りさせないところに凄みを感じます。
最後に二つ、彼女が嫌いなものをお伝えしておきましょう。「凡庸」と「偏狭」です。
【Reality Asylum / Crass】
寅間心閑
■ ビョークのアルバム ■
■ Yoko OnoとJames Blakeのアルバム ■
■ Crassのアルバム ■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■