『犬神の悪霊(たたり)』1977年(日)
監督・脚本:伊藤俊也
キャスト:
大和田伸也
泉じゅん
鈴木瑞穂
小山明子
配給:東映
上映時間:103分
オカルト・ブーム全盛期。70年代後半に製作された「犬神の悪霊」は、「初の本格オカルト」という言葉を売り文句にして公開された。題名から察しがつくように『犬神家の一族』(76)の大ヒットにあやかっているわけだが、本作はシリアスな謎解きもなければ、悪を倒し、囚われた乙女を救出するハッピーエンドを作品の大きな魅力にしているわけでもない。むしろその真逆の方向性、すなわち〝構造破壊の連続性〟の魅力を持った作品と言えるだろう。ではここで言う〝構造破壊の連続性〟とは一体何のことなのか。脚本の流れと映像・音響表現の構造を分析しながら本作の魅力と価値を再検討していきたいと思う。
■映像・音響表現の破綻■
まず注目すべきはオープニングから見せる乱雑な物語展開だろう。オープニング、ジープに乗った男三人がクロース・アップで映し出され、男臭いダンディズムを見せつける。彼らの目的は、この時点では不明瞭であり、ただそこには何か金銭的な狙いがあるのだということだけが「宝探し」という言葉で暗示されていた。そしてショットは切り替わり、川辺で戯れる全裸の女二人がスローモーションと甘いメロディで映し出される。裸の美女に気付いた主人公は、豊潤な胸を揺らす美女を覗くために川辺の大木によじ登るのだが、男のかけ声で驚いた彼は彼女たちがいる川へと落ち、「プーッ」と言って水面から勢いよく顔を出すのだから滑稽だ。そしてすぐさまショットが変わり、そこに映し出されるのは、車のアンテナに干された男のパンツ。
ポルノを極端なズーム・アップとエロティックなメロディで彩り、馬鹿げたユーモアで見せるこのシーンは、明らかに従来の怪談映画や怪奇映画の枠組みから逸脱しており、70年代のハリウッド製ホラー映画によく見られるエロティックなオープニングとも異なっていたように思われる。なぜなら一般的に(ハリウッド映画がその典型であるように)、映画のオープニングはまず登場人物の説明と作品の雰囲気を伝えようと努める傾向にあるからだ。オープニングで女子高生たちのシャワー・シーンをエロティックに見せた『キャリー』(76)でさえ、バレーボール試合で貶され、いじめられる主人公にカメラが寄っていくことで、本作がいじめられている孤独な女子高生キャリーを主人公にした映画ということが視覚的に理解できる構造になっていた。しかし本作は、オープニングで説明を排除し、突然、女の裸をエロティックに見せつけてしまうから驚愕だ。観客はこのオープニングが一体何を語っているのか理解できず、ただ唖然とし、笑うしかないだろう。
そんな観客を尻目に、パンツが映し出された次には壊される祠をクロース・アップし、大げさなメロディが流れ、鉱脈を見つけた男たちは一斉に歓喜する。彼らは鉱脈の発見に浮かれて、少年が飼っていた犬をひき殺してしまうのだが、「まぁ、仕方ないよ。たかが犬一匹だ」とすぐに笑顔になり、観客を苛立たせる。そして彼らは、怒りと憎しみに燃える少年の眼差しに後ろめたさを感じながらも無言でその場を立ち去るのだ。
「半年後―晩秋」とテロップが入った次のショットでは、主人公の男とあの裸で泳いでいた女の一人が結婚式を挙げており、彼と彼女がいかにして結婚に至ったかは一切描かれず、連続的なカッティングで少年のパチンコが婚礼の儀式を妨げる様を見せると、続いては極端なダッチ・アングルによるクロース・アップで、バシン、バシンと姉に叩かれる少年が映し出されるではあるまいか。少年は憎しみを吐露し、親友同士の別れが超クロース・アップで描かれるのも束の間、都会での披露宴で同僚が狂乱する姿を揺れるカメラ・ワークによって荒々しく見せていた。そして彼が自殺すると酔っぱらった2人が車で道路を疾走し、そのうちの一人はシェパードの群れにあっという間に殺される。そこには『オーメン』(76)のようなサスペンスはなく、ただ乱雑でダイナミックな断末魔と連続的なカッティングが共鳴するだけだ。
こうした序盤の流れを見ても、本作がいかに説明を排除し、ダイナミックに、そして荒唐無稽に突き進んでいるかがわかる。それも徹底した逸脱のカメラ・ワークと獰猛な編集、ポップで民族的なメロディが一つのシーンで混ざり合い、それらが繋がれ、シークエンスとなり、感覚的に観る者を圧倒する。一つのシーンや場面だけが構造的に破綻しているわけではなく、すべての場面において破綻し、繋がれていることで従来の怪談映画や怪奇映画に必要とみなされた描写、あるいは観客に感情移入させるための説明的描写や心理描写をことごとく破壊しているように思われる。こうした構造破壊が絶え間なく続いていく本作は、まさしく逸脱の美学とも言うべき統一感を持っていると評価することができるだろう。〝構造破壊の連続性〟、それは不協和音の連続であり、荒唐無稽な演出や出来事の連続性である。こうした逸脱の美学は『サスペリア』(77)、あるいはダリオ・アルジェントの作品群に酷似していた。とりわけ親友からの手紙を読むシーンは、逸脱の美学によって染められた傑作シーンではないだろうか。
ヒロインは病に倒れた夫に背を向けながら、親友からの手紙を読む。愉快なメロディが流れ、親友の手紙を微笑ましく読んでいるように見える。だが、突如として彼女の顔面がクロース・アップされ、怒りと憎しみの台詞が展開し、手紙が握りつぶされるのだ。そして案の定、編集によって余計な個所は徹底して削ぎ落とされ、さっきまで映し出されていたベッドで眠る彼女がいない。主人公が不思議に思って、畳の部屋を覗くと青いランプの中で手紙に釘を刺す妻の後ろ姿が映し出される。そこで夫は彼女を止めもせず、ただただ彼女の憎しみの声が響く。夫のクロース・アップ。青く照らされる顔面。手紙の穴。『サスペリア』や『東海道四谷怪談』(59)のような色彩美術と超クロース・アップ、そして説明が排除された物語展開によって、異様でありながらも美しい狂乱的な世界観が表現される一方、あまりに唐突で不可思議な展開と描写に、観客はただただ唖然とするほかないだろう。
さらに編み物をしながら発狂する光景、あるいは除霊の儀式での滑稽な悪魔祓い。握り飯を体中にこすり、エクスタシーを感じて乳房を見せながら乱れるエロティシズム。雪の降る夜の狂乱からアクロバティックなアクションにいたるまで荒唐無稽な逸脱の映像と音響は、絶え間なく続いていく。しかもそうした逸脱した映像演出と音響表現、編集のリズムだけでなく、本作の物語展開も慣例的な物語展開を意図的に逸脱し、加速度を増して破綻していくのである。
■物語展開にみる破綻の美学■
本作の脚本構造において最も興味深いのは、主要な人物、もしくはヒロインと思っていた人物が唐突に死んでしまう点にある。これだけを聞くと、それは『サイコ』(60)と同じではないかと指摘されると思う。たしかに本作は『サイコ』と同じように、ヒロインが死ぬことによって、次に登場するヒロインの親友が第二の主人公となる。しかし『サイコ』と大きく異なるのは、第二の主人公となったその女(かおり)さえも、死んでしまうという点だ。しかもその女だけでなく、オープニングから登場していた少年までも村人に惨殺されてしまうのである。行き場をなくした観客は本作の物語がどのように展開していくのかさっぱり読めず、一体これは何を目的にしているのか、と思っていると家族を殺された父親が犬神の儀式を行い、彼女たちを惨殺した村人を次々に殺していくではあるまいか。ついには狂乱した謎の男までも登場し、犬神の祟りによって発狂した主人公の義理の長男であることが明かされる。しかも突如として登場したこの青白い顔の男は、終盤においても死にかけた状態で再登場し、主人公の足を掴んで悪霊との死闘に少なからず参加するという荒唐無稽甚だしい活躍を見せる。
もはやそこには犬神とは何なのか、というミステリーは一切ない。ただ怒涛の修羅場が連続的に展開していき、観客を完全に突き放し、荒唐無稽な世界観が観客にのしかかるだけだ。しかしそうした構造の破綻にこそ、本作の魅力があるのだと思う。脚本が粗雑で、ストーリー構造が破綻した駄作とは異なり、本作は破綻の連続性を見せる脚本と呼応して、映像・音響表現までも破綻し、ダイナミックな感覚を漂わせていたように思われる。
■なぜ主人公は磨子の救出に全力を注ぐのか?■
そして終盤にかけても本作は怒涛の展開を見せつける。主人公の義理の父親に磨子を守るようには頼まれるが、彼はその後になぜか酒を大量に飲んで、泥酔してしまう。そこには彼女を守ろうとする意志がないように見える。案の定、手足を拘束されてしまう主人公。彼の義理の妹である磨子が犬神に憑かれたかたちで登場すると、すべて自分のせいで愛する者や村人を死なせてしまったことに気付かされる。そして主人公は磨子を憑物から救出しようと奮闘するのである。しかしここで注目すべきは、なぜ主人公は磨子を執拗なまでに救出しようとするのか?ということだ。
前述した通り本来であれば、彼は義理の父に磨子をたくされているため、彼女を救出しようとしてもなんら不思議ではない。しかし彼は父の遺言を聞いても磨子のもとへと真っ先に駆けつけることはしないから、観客には磨子の保護を放棄していると見なされるだろう。そうした状態で、突然磨子を救出しようと奮起するのは聊か滑稽にも見える。では一体何が彼を救出へと向かわせたのか。まず考えられるのが、弱者の救出劇という典型的な物語展開に倣っているという指摘だろう。
たしかに一般的によく見られるハリウッド映画の物語展開としては、主人公が悪霊から救出する人物は観客が助けたいと思うヒロインであり、美女、もしくは主人公と密接な関係を持った少女や少年であった。そうした観点からすれば、幼き磨子が悪霊に憑かれ、主人公が救出しようと試みる展開は自然な流れと言える。しかし専ら、そうした人物らが採用されるのは、その人物が序盤から主人公と共に行動し、観客に親しまれるように構築されてきた場合のみである。『エクソシスト』(73)においても序盤では純粋で可愛らしいリーガンの姿が丹念に描かれることにより、中盤からリーガンが憑依された際に、観客は序盤で見た可愛いリーガンに戻ってほしいと願うようになる。だからそこにサスペンスが生まれ、観客は主人公の救出劇を応援するのではないだろうか。しかし本作では、磨子と主人公の関係性は希薄である。彼らが会話するシーンは二つしかなく、磨子が憑かれた状態で登場するや否や人が変わったように「磨子を返せ」と叫ぶ彼の言動は不可思議と言えるだろう。悪霊が彼に対して立ち去るように忠告しているにもかかわらず、主人公はそれを無視して執拗なまでに磨子の救出に全力を注ぐのだ。しかも彼の台詞には父親の遺言を受けたから、という趣旨の文句は一切ない。
こうした唐突で逸脱した展開の理由は主に三つあるように思う。まず一つは、そもそもこのクライマックス自体、『エクソシスト』のリーガンを踏襲したパロディ的要素を含んでいるということ。そのためクライマックスで憑かれるのは、女ではなく、少女でなければいけない。それ故、必然的に磨子が採用されるということだ。
二つ目は、主人公の自責の念にあると思われる。「すべては俺のせいだったんだ」と嘆き、「まだ磨子が残っている!」「俺の可愛い磨子を取り戻すまでは、俺はこの家から出ていかん!」と叫んで救出しようと試みる主人公の台詞からも明白なように、彼は自分のせいで村人や愛する者を殺めてしまったことで自責の念に囚われている。彼が唯一救われる方法は、最後まで生き残った磨子を救出することに他ならない。すなわち、彼は自己利益のために磨子を救おうとしているのである。
そして三つ目の理由としては、本作の連続的な構造破壊の一端として機能する役割を持っていたという点だ。本作の全体的な流れ、つまり犬の殺害、同僚の不審死、犬神の祟り、麗子への憑依、精神病院から村の祈祷師、麗子の死、かおりとの再会と死別、犬神の降臨と村人殺害、狂乱した長男坊といった流れから明白なように、本作の脚本構造には観客の心のよりどころがなく、荒唐無稽な展開ばかりである。救出劇の末路も、悪霊が「ならば、もっと苦しむがいい」と呟く通り、彼は助けようと思った磨子を皮肉にも自らの手で殺めてしまう。そして希望を失い、全てを失った彼は首を吊って自殺するのだ。自殺によって井戸の水が彼女の顔にかかり息を吹き返すという展開も乱雑なダイナミズムに一役かっている。まさしく磨子への不可思議な救出願望は、彼の心理と結末の構造を破壊するための表現として位置付けることができるだろう。
精緻な脚本分析と憑きもの信仰を検証した志村三代子氏の論文『憑もの信仰と映画―『犬神の悪霊』の毀誉褒貶をめぐる一考察』(比較日本文化研究 第13号、2009)では主人公「加納の自己犠牲で救済される」と述べられているが、前述したように主人公の終盤による救出劇は、自己犠牲というよりも自らを救済するための自己利益的な行動に他ならない。また「磨子、許してくれ」という台詞からもわかるように、井戸での首吊りも絶望の淵に立たされた彼の憂鬱さが引き起こした行動であり、磨子を助けるための自己犠牲、あるいは救出の行動とは言い難い。だがそうした自己利益的な行動が、本作をより一層破綻の美へと昇華させていたように思われる。磨子が目を覚ますショットに民族的で奇妙なメロディを流す演出も「磨子の蘇生」を馬鹿げたユーモアとして見せた逸脱の演出と言えるのではないだろうか。
とりわけラストが凄まじい。生き残った磨子が火葬だけで済まされる主人公の棺に声をかけると主人公が飛び出し、顔面が炎によって溶けていく様を超クロース・アップで見せ、「完」。このラストはロジャー・コーマンのゴシック怪奇映画を彷彿とさせる見世物的描写であり、最後までハチャメチャな展開を見せる演出としてはとりわけ適切だったと言えるだろう。
上記論文では「加納によって救済された磨子が、今度は自らの涙で加納を蘇生させ、二人が再び視線を交し合うラスト・シーンは、過剰な情念の表出を許容するメロドラマ的演出であると解釈されるべきなのだ」と論じられているが、そうした感動的な救済のイメージを前面に出す美しいラストに仕上げるのであれば、あのドロドロに溶ける主人公の超クロース・アップはいらなかったはずである。だが本作はそうしたゲテモノ描写を見せつけ、しかも真っ赤な文字で「完」と映す。そのため構造破綻の連続性における集大成として読むほうが自然だと思われる。
いずれにせよ、こうしたアンチ怪奇映画、アンチ怪談映画、アンチ・ハリウッド的展開を見せる本作の物語展開は、意図的に観客を置いていきながら突き進む荒唐無稽なダイナミズムに染まっていたと思う。一部分だけ破綻しているのではなく、それぞれのパートが映像・音響的な表現、あるいは物語展開において破綻しており、その破綻の連続性が作品に「破綻」という名の統一感を持たせていたのではないだろうか。そうした巧妙さの意味でも、本作における緻密な破綻の美学は、高く評価されるべき点と言えるだろう。またこれほどまでに荒唐無稽なダイナミズムを持ったホラー映画が早くも日本で製作された点には『ハウス HOUSE』(77)と並んで映画史的な価値があると思われる。しかし本作の破綻の美は、そうした表現だけによって構築されたものではない。記号として、表象として映し出されるマニアックなイメージの複合が本作をより一層ハチャメチャな世界にさせていたのではないだろうか。
■コラージュの美学■
日本のホラー映画は、しばしば「混成映画」として諸外国から評価されてきた。本作は他の映画作品をコラージュする混成映画の代表的な作品であると同時に、そうした混成映画の特徴を生み出した初期の日本のホラー作品としても評価できるだろう。なぜなら本作は、日米の代表的なホラー・イコンを大胆に混ぜ合わせているからだ。
まず目に付くのが、憑かれた少女の表象であり、アクションである。ラストで憑かれた人間が少女である理由は前述したように日本でも大ブームを巻き起こした『エクソシスト』のリーガンのイメージに他ならない。様々な声や音が混ざり合った少女(犬神)の声は、明らかに『エクソシスト』を模倣した演出と言えよう。また真っ赤なコンタクト・レンズを入れ、睨み付ける姿は『血を吸う人形 恐怖の幽霊屋敷』の美女に似ている。そして壁や天井を駆け回り、トリック撮影が行われるアクロバティックな女の姿は、かつて怪談映画よりも人気を博していた怪猫映画における怪猫のイメージではあるまいか。犬の首が飛んでくるというのも『怪猫有馬御殿』(53)に見られる憑物映画のパロディとして読み取ることができる。そもそも『犬神の悪霊』というタイトル自体、『犬神家の一族』やオカルトの悪霊を想起させるものだ。そうした過去の作品を想起させる要素を散りばめ、一つのシークエンスの中で混合させることにより、本作はコラージュというオリジナルを手にしていたように思われる。
もはや犬神が何なのかはどうでもいい。これほどまでにバカバカしく様々な要素を放り込み、破綻そのものを緻密な構造とし、一体感のあるダイナミズムを生み出すことに成功していた本作は、コラージュ映画という後の日本のホラー映画の方向性を決定付けた作品として評価できるだろう。コラージュ映画が日本のホラー映画の一つの特徴であり、魅力ならば、本作は日本のホラー映画の魅力を存分に発揮してくれる作品であり、70年代というヤケクソが通用した時代だからこそ生み出せた記念碑的作品ではないだろうか。
後藤弘毅
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■