女くどき飯
TBS
火曜深夜11:11~(放送終了)
リアルな店舗を紹介する食ドラマという意味では、「孤独のグルメ」の系譜といえる番組だろう。そして出来としては、「孤独のグルメ」の女版と呼ばれる「ワカコ酒」よりもずっとよい。結局のところドラマの出来不出来は、全体のテンポ、リズム感である。
「女くどき飯」は「孤独のグルメ」よりは込み入った設えである。彼氏いない歴5年の女性ライター(貫地谷しほり)に、「女くどき飯」という品のないタイトルの連載企画が舞い込む。我こそはという応募者のイケメンに、ここぞという店で飯を食いつつ口説いてもらう、というものだ。タダ飯食えてイケメンにちやほやされるという夢の企画ではある。
つまりここでは主人公は孤独を愛してはおらず、女性一般の孤独から抜け出したい幻想に加担する、という形を取っている。それがどんなに通俗で馬鹿馬鹿しく見えたところで、実際にはその設定が功を奏して、ドラマにはリズムが生まれ、さまざまなセリフ、特に女主人公の内面の声が生き生きとした現代性を帯び、なおかつ笑いとともに切実な現実感もまた漂う。
結局のところ、それが性差というものだ。主人公を女にした瞬間から、「孤独のグルメ」的な価値観は意味を失う。何も無理をすることはない。たかがテレビやマンガではないか。女の独り酒など見ていられない。孤高を楽しむ姿などより、キョロキョロして男を探している方が共感できる。
そして、やはりテレビドラマはリズムだ、ということには実は結構、意味があるのではないか。テレビドラマは文学ではない、演劇でもない、映像に耽美すべき映画とも違う。意味的なテーマを掘り下げても視聴者にとどくとはかぎらないという意味で、広義の音楽のようなものではないか。
音楽でテーマといえば、繰り返し変奏される耳慣れたメロディのことで、リズムのいいテレビドラマにもそれはある。「この菊の御紋が目に入らぬかっ」というようなものだ。わかりきっていても、視聴者はそれを待っている。それがなくては見た気がしない。
「女くどき飯」はパターン化に優れたドラマである。女編集者から電話がかかり、「今回も面白かった」、「あざーす(ありがとうございます)」から始まって、「いい? ホントに食われちゃ、ダメなんだかんね」。(電話を切り)「食われるかっつーの。どーせ○○な男なんだろー」と言いつつ、いそいそとワードローブを開く。この辺のパターン化された一連の動きに、貫地谷しほりはいい味出している。
そしてメタ的な処理なのだが、主人公の女性ライターは連載継続、シリーズ化というエサをぶら下げられている。口説かれては真に受け、毎度フラれるという寅さんばりの型が作られているのは、この女主人公の、そしてこの番組の制作の、熱意と戦略が込められているのだ。まあ、男の口説き文句など虚しいとわかっていても耳に心地よく、美味しい店の紹介というのも8回やそこらで止める理由はない。シリーズ化を期待する。
山際恭子
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■