アンドレイ・タルコフスキー監督作品
1975年公開
2回にわたって『鏡』を読んできたが今回をもって終わりにしたい。端的に言えば『鏡』とは「記憶」のメタファーであり、実際の「鏡」が現在あるがままの己を瞬間的に映し出すように、「記憶」は現在に至るまでの己をその時間的推移として映し出す。そしてタルコフスキーは、「鏡」=「記憶」を、己という主体の意思によって制御することができない不可触な対象として描いている。
タルコフスキー特有の長回しのショットにおいて、偶然のようにフレームインしてくる「鏡」は、いずれも古びているためなのか曇ったり歪んだりしており、そこに鮮明な鏡像を映し出すことはほとんどない。
また、母や父や祖母の「記憶」、また監督であるタルコフスキー自身の「記憶」、さらにソ連という国家自体の「記憶」、そのいずれもが物語の起承転結を無視した、いわば偶発的でしかも不鮮明なイメージとして断片的に召還される。
大方の『鏡』評が指摘するように、『鏡』を「記憶」のアナロジーと捉えるなら、脈絡のない物語性にしても超自然的な風景描写にしても人物の不自然な行動にしても、多少ネガティヴな夢の世界として苦もなく腑に落ちるはずだ。つまり『鏡』を語ることは昨夜見た自身の悪夢を語るように、ひたすら自己完結的な言い訳を連ねれば事足りてしまうはずだ。
しかし、『鏡』を夢物語で読み解いた気になって、しかも何事かを得たような束の間の安心に浸り満足したとしたら、『鏡』という映画もアンドレイ・タルコフスキーという映画監督も、さらにはアルセニー・タルコフスキーという詩人でさえも、我々の記憶の底をこれほどの長きにわたって執拗にざわめかすことはあるまい。
そして「記憶」もまた『鏡』という映画同様に、個人的体験として読み解けるほど単純なものではない。それはどこまでも執拗に宿主としての己を追いかけ続ける。記憶がその宿主の意思によってどうにでも操れるものなら、タルコフスキーはわざわざ記憶の集積のような映画を作ることはなかったのではないか。都合のいい記憶だけを取り上げ、適当な物語にまとめれば事足りたはずだ。
『鏡』には多様な人物の多様な記憶が脈絡無く現れては消えるが、それは一人の記憶の在り様と異なるものではない。そうした意味で『鏡』を極私的な映画として語るのは正しい。いや、タルコフスキーは十分な意図をもってこの映画を極私的に設えたと言ってもよいだろう。
何故ならタルコフスキーにとっての映画は、記憶の呪縛から自らを解放するための装置だからだ。そしてそれはタルコフスキー自身だけではなく、映画自体にも生まれついたときから解放への欲望があったからに違いない。だからそうした映画の欲望に引き摺られるかのように、さまざまな記憶は映画の創造者である監督自身の記憶へと収斂していくことになる。
私は同じ夢をよく見る 不思議なほど
夢は私を連れ戻そうとしているようだ
あの懐しい大切な場所へ
私はそこで生まれた
(中略)
時にはあの夢を見なくなる
家も林も出てこない
気がめいってしまう
夢を待ちつつ待ち切れなくなる
夢の中で子供に戻り
再び幸せを感じる
そこには未来が
可能性がまだある
もちろん夢とは記憶のことだが、夢が甘美であるのと同様に、記憶もまた幸せな感情と未来をもたらす。この独白を伴ってスクリーンに映し出される映像は、監督の幼年時代の家の、部屋から部屋へと長回しのカメラが執拗に動き回るイメージショットだが、やがてカメラは暗い家の中から明るい庭先へと歩いて出ていく母の姿を、平穏な日常のイメージとして映し出す。と同時に、部屋の暗がりでいたずらに男の子が擦ったマッチの炎が、男の子の顔を闇に浮かび上がらせる。日常の記憶に己自身の姿を見出すかのように。
映像から色が抜け落ちスローモーションに変わると、林を歩く男の子(幼い頃の監督本人)の行く手に幼年時代の家が現れる。カメラが家に寄っていく。「ママ」とささやく男の子の声。ドアに立つ男の子の背中。ドアがゆっくりと軋みながら開く。(窓ガラスを割って飛び出る鶏)林を通り抜ける一陣の風。ざわめき波打つ木々に雨が吹き付ける。テーブルの燭台が風に煽られて倒れパンの塊が転がる。男の子が家に向かって駆けて行く。追いかけるように大粒の雨が降ってくる。ドアノブを廻す男の子。開かないドア。男の子があきらめて立ち去る。ひとりでにゆっくりと開くドア。部屋の中から犬がドアの外へ出て行く。母がしゃがんで芋を選り分けている。
独白とそれに続くモノクロの場面は、監督本人の幼年期の記憶を断片的につなげたような、極めて非日常的なイメージショットからなっている。なかでも林を抜けてきた一陣の風が、テーブルに置かれた燭台を倒しパンの塊を転がすスローモーション映像は、この場面だけでなく映画を通して他に2度ほど回想イメージとして挿入されている。
このショットにおいて、目に見えない風は、タルコフスキー自身にとっての父の不在を象徴しているように思われる。燭台をテーブルから転げ落とし、食べかけのパンの塊りを転がしながら通り過ぎていく風。平和なテーブルの風景を簡単に破壊するこうした風の存在は、突然の失踪によって家庭を不幸に陥れた父そのものであり、目に見えない風を描くことによって直截的に父の不在が表現されている。
しかし逆の見方をすれば、たとえ目に見えなくても、それは確実に木々をざわめかせ燭台を倒しパンを転がせる。不在にもかかわらず確実な力の存在として描かれた風には、タルコフスキー自身が抱いてきた、父に対する畏怖こそが潜んでいるように思えてならない。
続いて場面は、貧しい暮らしの中で、金策のために母と宝石を売りに行った、少年時代の回想へと変わる。郊外の富裕な一軒家で、主婦と商談のため隣室に消えた母を待ちながら、所在なさそうに佇む少年期のタルコフスキーが、ふと壁にかかった鏡を見るという場面だ。カメラは鏡に映った少年の表情をことのほか意味ありげに捉えている。やがて画面は少年自身のクローズアップに切り替わる。
鏡に映った少年はどこかしら不安げな眼差しだったが、このクローズアップされた表情からは少年らしい自然で肯定的な意思が感じられる。突然画面は熾火の真っ赤な色に覆われる。熾きはまるで生きて呼吸しているかのように明るくなったり暗くなったりする。少年の揺れ動く感情を象徴するかのようだ。唐突に鏡に映る少女。そして燃える木切れの炎にかざした少女の手のクローズアップ。少年が恋いした少女?少しずつ大人へと成長していく少年が記憶の断片とともに語られる。
母の商談は母自らによって白紙に戻され、母と少年は逃げるように一軒家を後にする。帰り道を歩いていく場面で最後の詩が朗読される。この詩は今まで同様監督自身によって朗読された父アルセニーの詩だろうが、それまでの詩とは趣を異にする。前半部分では詩人自身に対する不信感が世界への不信として語られるが、その一方で後半部分からは、我が子に対する愛情のこもったメッセージが、己への不信感を払拭する願いを込めて語られる。
人間に肉体は一つ 独房だ
5ペイカ硬貨大の耳や目
それが骨格を覆っているのだ
“いとわしい”と魂
天空の泉へと
鳥の馬車目指し
森や畑のざわめき
七つの海の高鳴り
肉体なき魂は裸体のごとく罪深し
意図も言葉もない
(中略)
子よ走れ
エウリディケを嘆くな
棒で銅の輪を
己の世界を追え
かすかにでも
一歩一歩の歩みに
陽気に無情に
大地がざわめく限り
この朗読の後で映画はラストシーンへと向かうが、その前に監督本人と思われる病床の男の独り言が挿入されている。母親の見守る病室のベッドで男がつぶやく。「ほっといてくれ 僕は幸せになりたかっただけさ」。「大丈夫 うまくいくさ 何もかも」。男はシーツの上に横たわる死んだような小鳥を手で掬うと、おもむろに宙に放り上げる。生き返ったかのように羽ばたいては飛び去る小鳥。
男(=監督自身)のつぶやきと蘇った小鳥の映像は、『鏡』にカタルシスという一つの物語をもたらそうとする。だから仮にこの場面で映画が終わったとしても、記憶の呪縛から解き放たれ蘇った生の記録として、魂の再生物語として、『鏡』を語ることは十分可能だ。しかしタルコフスキーはそうした物語にあえて背を向ける。
そしてラストシーン。場面は冒頭に出てきた幼年時代の家に戻る。草叢に横たわり抱き合う父と母。幸せそうな表情の母が体を起こし振り返る。
庭先で腰を降ろして煙草を吸う老婆が振り返る。バッハのヨハネ受難曲が流れ始める。女の子(監督本人の妹)の手を引いて草叢のけもの道を歩いていく老婆。この老婆はもちろん年齢的な矛盾があるが、おそらく監督自身の母の老いた姿と思われる。
若いころの母が再び振り返る(クローズアップ)。幸せそうな母の目から涙がこぼれている。
けもの道を歩いていく老婆と女の子。その後をついていく男の子(監督本人)。道のかなたに広がる草原と傾きかけた入日。音楽が終わり男の子の雄叫びが草原に響き渡る。
「ハッハッハッハッーアー」
口に手をかざし叫ぶ男の子。木立を横切っていくカメラ。映画は唐突に終わる。雄叫びの余韻を残しつつ・・・。
余韻はオープニングシーンへと回帰する。白衣の女医がどもりの青年を治療する場面。それまで殆ど喋れないくらいひどいどもりだった青年が、女医がかけた魔法のような暗示でカメラに向かって言葉を発する。「僕は話せます。」と。
始まりと終わりで登場するこの「発語」を象徴する二つのショットは、「言葉」に対するコンプレックスからの解放を意味するかのようだ。それはタルコフスキー自身の父に対するコンプレックスからの解放であり、また祖国ソビエトという世界に対するコンプレックスから自己を解放することでもある。
『鏡』という映画を考えるとき、記憶という断片的な映像が、何ゆえ見る者を最後まで引っ張っていく力を持ち得るのか。物語としての枠組みを放棄してまで、つまりドラマとしての理解を捨ててもなお、何ゆえ見る者を映画という枠に留める力を持ち得るのか。このような疑問に直面せざるを得ない。
そして私たちは、脈絡のない偶然としか言いようのな場面からたとえ何がしかの意味を抽出し得たとしても、その意味もまた脈絡のない不毛なものにならざるを得ないことを知ってしまう。その挙句、そうした意味を不毛にする原因として、映像そのものに存する力、つまり映像の肉体性=身体性といった概念を持ち出そうとする。
しかしタルコフスキーをそのような映像美学から語ることは、タルコフスキーが創造した世界を、その作品内でしか存在し得ない過小な世界にしかねない。
『鏡』に話を戻せば、記憶の断片としての場面は、それぞれが明確な意味なり象徴なりを持ちながら、それらの断片を貫くべき縦糸(=物語性)を持たずに、それぞれが伸ばした触手で次々に通り過ぎていく場面=記憶を取り込んでいく。この増殖としか呼びようのない運動にとって、記憶というアメーバのような物質は極めて変形し易く、ゆえに取り込み易いと言えよう。
さらにタルコフスキーは、このような増殖運動を促進するために、「自然」を巧みに利用する。雨、水溜り、川そして、洗面器やガラスの器に満たされる水や牛乳、林を通り抜ける一陣の風、草原の草をなびかせる突風、熾き、ストーブで燃える火、ランプの炎、裸足の足にこびりつく泥などなど。こうした水・風・火・土といった元素が、さまざまな自然として形を与えられ映像化される。しかもそれらはまるで生きているかのように描かれる。そうしてすべてが何かの象徴として意味を与えられているのは言うまでもない。
映画芸術は電気という人工的なテクノロジー無しでは成立しない。映画にとって電気とは神のごとき存在である。しかしその神は永遠に人工である宿命から逃れることはできない。タルコフスキーはこうした映画の宿命に極めて反抗的な映画監督とは言えないだろうか。それは彼の自然に対する執拗な接近(クローズアップを多用する字義どおりの意味として)から読み取ることができる。
と同時にタルコフスキーは、映画がテクノロジーの宿命から逃れられないことを最大限に利用する術を知っている。それは映画が視覚のみならず聴覚によっても知覚され得るということだ。『鏡』における音楽の使い方や詩の朗読からは、映画としてできうる限りの情報を、刺激として観客に知覚させようとする、執拗なまでの執念が感じられる。
このように、『鏡』という映画には膨大な知覚すべき情報がこれでもかというくらい詰め込まれている。それを、映画という時間の流れの中で、私たちはどの程度意味として掌握できるのだろうか。そこには個人差があってしかるべきだが、多ければそれだけ『鏡』が面白いかというと決してそうではない。なぜなら、おそらくそこには、監督の意図を超えた偶然としか言いようのない意味が、陥穽という大きな口をあけて待ち構えているはずだからだ。問われているのは見る者の情報処理能力では決してない。
では改めて問うてみよう。『鏡』が映し出すのはいかなる世界なのか。その世界を我々はどう体験し、またどう読むべきなのか。
一つの答えを提示しよう。それは、映画におけるテクノロジーという宿命(=コンプレックス)を、映画として表現された「自然」の力によって、映画の中に解放することである。つまりそれは、創造者の意図(=人為=テクノロジー)によってがんじがらめに縛られた映画そのものを、自然という偶発的かつ不作為な方法に委ねることによって、世界を作品を超え出た映画そのものの一部と化してしまおうという戦略なのだ。
我々はひとまず、こうしたテクノロジーと自然とのぶつかり合いを、作為と不作為との相反する力の相克を、映画として目の当たりにしなければならない。そしてなお、たゆたうように流れ続ける映画の時間に、我々はなすすべなく身を委ねるしかない。そうして、いつの間にかエンドロールも尽きて光だけになったスクリーンを、我々はただ注視し続けるしかないのだ。
緑川信夫
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■