監督:クリント・イーストウッド
脚本:ピーター・モーガン
キャスト:
マット・デイモン
セシル・ドゥ・フランス
フランキー・マクラレン
配給:ワーナー・ブラザース映画
上映時間:129分
年をとるにつれて自らの作品が衰えていく監督は珍しくない。しかしクリント・イーストウッドは違う。『ブラッド・ワーク』(02)以降、彼の作品はより洗練され、濃厚なドラマを堪能させてくれる。本作はそんな彼のフィルモ・グラフィーの中でも最も難解な側面を見せ、美しく暗喩的な人間ドラマを魅せてくれる作品であり、彼の円熟期における秀作と位置付けることができるだろう。まず題名からして興味深い。「ヒアアフター Hereafter」。「来世」、あるいは「あの世」という意味だろう。一見するとスピリチュアルな題材としても捉えられるタイトルだ。しかし本作は超能力者を主人公としてはいるものの決して超能力をテーマにした作品ではないし、来世やあの世が存在するかどうかは、本作においてほとんど意味をなしていない。
本作はむしろ、そうしたスピリチュアルな点よりも、〝死〟と向き合わざるを得ない三人の人物が織りなすそれぞれの〝孤独〟と〝再生〟を暗喩的に表現した作品であるように思われる。本稿では、そうした暗喩的な主題を脚本構造(人物の人間関係や言動など)によって解き明かしていきたいと思う。
■〝死〟を背負う三人が抱える〝孤独〟とは?■
まず注目すべきは、マット・デイモン演じる霊能力者のジョージ。彼は手に触れた者に取り巻く〝死〟の世界とコネクトしてしまう一種の霊能力を持っている。だがそうした特殊能力を本作は肯定的に描いてはいない。なぜなら、そのような霊能力は、死の世界とコネクトすると同時に、手に触れた者の全てを(相手にとって最も知られたくはない、あるいは知りたくはない秘密さえも)知り、全く違う視点で相手を見てしまうことにもつながるからだ。知ってはいけないものまでも知ってしまうが故に、人間関係は崩壊する。だからこそジョージは「今まで何度も経験してきた。一度知ってしまうともう二度と元の関係には戻れない」と嘆く。
すなわち手に触れた者の全てを知ってしまう彼の才能(ギフト)は「コミュニティの断絶」を意味する。それ故、彼は女性に触れることもできず、家庭も持てず、友人もいない。死の世界にコネクトする能力、すなわちコミュニティの断絶こそ、彼にとっての「呪い」なのではないだろうか。だから彼は自分とは真逆の人間を「幸せだ」と言う。それは彼の兄である。彼の兄は、野心家で仕事もあり、家庭も持っている。コミュニティに属し、家庭を築いている兄は彼の憧れであるため、決して裕福層ではない兄を「兄は僕よりもずっと幸せだよ」と自らの境遇を呪うかのように呟くのだ。まさにジョージの〝手〟は『シザーハンズ』(90)(ジュニー・デップ演じるエドワードの手に装着されたハサミ)のようにコミュニティの断絶を意味していると同時に、彼自身の孤独を意味していると言えるだろう。
そんなことをわかっていても彼は人との関係を求めずにはいられない。ジョージは料理教室で知り合った女性に惹かれるが、触れることができない。彼女に求められ、彼は渋々コネクトする。しかし霊能力で死の世界とコネクトすることによって彼女が父親に性的虐待を受けていた事実を知り、彼女自身を深く傷つけることになる。彼の〝手〟が彼を再び孤独にし、彼女を遠ざけてしまったのだ。
一方、ロンドンに住む幼い双子兄弟の弟マーカスは、唯一頼れる存在だった双子の兄ジェイソンを事故で亡くし、計り知れない孤独に苛まされる。そして巨大な津波に襲われ臨死体験をしたジャーナリスト、マリーは臨死体験によって死後の世界に魅せられる。その結果、彼女はキャリアを失い、恋人を失うのだ。
〝死〟の世界とコネクトしてしまうが故にコミュニティが断絶するジョージ。〝死〟を受け入れられずに救いを求める少年。〝死〟の体験によって、築いてきたキャリアの全てを失ったキャリア・ウーマン。〝死〟をテーマにしながらも、それぞれ全く異なった死がもたらす〝孤独〟。しかし皮肉なことに、彼らを救ったのは、〝生〟ではなく、実は彼らが体験する〝死〟そのものだったのである。
■ラストのキスに見る〝手〟の暗喩 ~〝死〟が〝死の呪い〟を解く時~■
双子の少年の心を救ったのは、里親でもなければ、友人でもない。〝死〟に苦悩と孤独を抱く霊能力者ジョージであった。すなわち少年は〝死〟という同じ境遇の中で生きる人間に救われたのである。死がもたらした一種の〝死を体験したコミュニティ〟に触れ、彼はやっと生きることができる。
そしてラスト、マット・デイモン演じるジョージは臨死体験をしたマリー(死の境遇を持つ人物、すなわち同じコミュニティに属する女性)と巡り合い、想像の世界でキスをする。しかしカメラはキスしている二人を早々とフレームから外し、そのまま体のある一部分をクロース・アップするのだ。それは彼らが深く交差させている〝手〟である。
そもそも(前述したように)ジョージの〝手〟は一種の「コミュニティの断絶」の象徴である。彼は人間関係を崩さないために、人の手には触れないという対人関係のジレンマを抱えていた。だから女性に触れることもできず、永遠の孤独を呪っていたのである。しかし、彼は今、ヴィジョンの中で、深く、そして深く、彼女の手を握りしめている。このイメージの中で繰り広げられるキスと〝手の交差〟は、彼自身が一人の女性を愛すことができ、コミュニティの中に入り、永遠の孤独から解放されたことを視覚的に暗示しているように思われる。
さらにヴィジョンから解放された後にもカメラは、(キスはしないが)深く握手をする瞬間を堂々と、意味ありげにクロース・アップし、丹念に魅せていくではあるまいか。この執拗なまでの〝手〟の描写は、ジョージやマリーの人間関係におけるコネクト(つながったこと)を表現し、孤独という呪いから解放されたことを暗喩していると言って良いだろう。脚本家やイーストウッドの意図は不明だが、観客の独断的な観点から見れば、映像特有の表現を駆使した映画的比喩表現として評価することができるのではないだろうか。
こうしたラストにおける表現は、本作における逆説的な主題を感覚的に物語ってくれる。すなわち、死における様々な体験によって孤独を抱えていた彼ら三人の心を救ったのは、〝死〟の境遇で生きる彼ら自身だった、という逆説的でアイロニックな幸福論だ。死に囚われた人間が、死に囚われた人間を解放する。死は時にしてコミュニティを破壊させる人間の心を生みだし、肉体そのものも滅ぼす。しかし死は時に〝死〟という結びつきをも生む。そのような難解に思えて、ドラマティックで、知的で希望に溢れた暗喩的な主題こそが本作の一つの深さであり、大きな魅力の一つだったように思われる。
■乾いた映像スタイル 撮影監督・照明技師トム・スターンの貢献■
前述したように、オリジナル脚本から一切手が加えられていないというピーター・モーガンの脚本がもたらすテーマと暗喩的なパワー(訴えかける力)も確かに素晴らしい。しかし映画は集団芸術であり総合芸術でもあるため、決してその作品の魅力は一つではない。映画の魅力は一体どこにあるのだろうか?観客を魅了する様々な要素の中で、しばしば挙げられる要素が、映画作品における映像表現である。
とりわけ本作においては、クリント・イーストウッドと『ブラッド・ワーク』からタッグを組んできた撮影監督のトム・スターンの映像表現が、本作の乾いた人間ドラマをしんみりと劇的化していたように思われる。イーストウッドの静かに沁み渡る優しいメロディとトム・スターンによる孤独を表現した漆黒の映像表現が俳優の演技と呼応し、より一層観る者の心を打っていたのではないだろうか。
また台詞というサウンドも一種の表現として観る者の心を動かす。言葉を一つのサウンドとして観た時、『ミリオンダラー・ベイビー』(04)や『グラン・トリノ』(08)におけるイーストウッドのかすれ声は、もはやどのような映画音楽よりも観る者の心情を激しく押しつぶしてくれるだろう。そして言葉が紡ぐ台詞は、『父親たちの星条旗』(06)や『硫黄島からの手紙』(06)のように登場人物の心を明確に暴露し、観客の心理を物語に引き込んで離さない時もある。
だが本作は卓越した映像表現と演技の魅力、暗喩的なテーマといったものが確かに沁み渡ってはいたが、そうした「観客を映画の世界に引き込んで離さないような台詞回し」が足りなかったため、観客にしばしば退屈さを与えてしまったように思われる。だが一方でそれは、静かにドラマを形成していくための修辞学とみなすこともできるだろう。脚本と映像と音響、すべてが絡み合って主題を生み出す本作の陰で潜む台詞への問題は、もう一度本作を見直す愉しみを我々に与えてくれる。それが本作における一つの魅力でもあるのだ。
後藤弘毅
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■