太鼓持ちの達人
テレビ東京
月曜 11:58~
テレビ東京によるノウハウドラマ(という呼び名があるのか?)の一つである。いかに他人を褒め、気持ちよくさせて世の中を渡ってゆくか、というスキルを磨くことを目的とする。ブランドについて学んでダンディなオレになる、といった番組と同系列で、実質的にはバラエティであろう。もちろん、このようなものでは最終回に至るところでドラマとしての起承転結が示される場合が多いが。
各回において、(褒めごろす)ターゲットをカテゴライズした表題が付けられている。ターゲットは毎回一人ではなく、対照的なカテゴリーが組み合わされている。それによって、まあ、あえて言うなら「人間」についての洞察が多少深まると、言えなくもない。
たとえば、攻撃的なブスと内気な美人の組み合わせは、比較的わかりやすい。攻撃的なブスをなぜ褒めなくてはならないかと言うと、攻撃的なブスは勢いでもって自分の容貌を無化しようとするから、合コンの幹事などを買って出ている、ということである。美人を引っ張り出しては自分のモノのように振る舞うので、美人に近づくには機嫌を損ねてはならない。なるほど。
実際には、自分の顔にコンプレックスを抱いているのだから、胸を褒めるといったことに逃げず、その平板な顔を「アジアン・ビューティー」と褒める、というのが正解であるという。そして内気な美人に対しては、「見た目と中身が違う」と言うとよいそうである。
「見た目と中身が違う」というのはしかし、褒め言葉なのだろうか、とリテラルには思う。それが美人を喜ばせるということはつまり、褒められるにせよ妬まれるにせよ、いつも外見ばかりが取り沙汰される美人の不満、すなわちコンプレックスをなだめた、ということだろう。良かろうと悪かろうと「中身」というものがある、と認めてもらうこと、それを欲していると見抜けと言いたいらしい。
「アジアン・ビューティー」に類することには経験があって、ある女子の同級生が別の女の子に「スリーピー・アイだね。色っぽい」と言われ、感激するのを目撃した。いつも眠そうとか言われるのに、と。そうか、そういうふうに言わなくてはいけないのだ、と感心したのを覚えている。
確かに人が本当に望んでいる言葉とは、欠点やコンプレックスを補う褒め言葉ではなく、まさにそのコンプレックスを長所として逆転するような解釈であるに違いない。だから反社会的なバカであった元ヤンは「純粋」という言葉に、注目されるためには手段を選ばない真性かまってちゃんは「放っておけない」という言葉に安堵し、心の居場所を得て昇天する。
「太鼓持ちの達人」は(もちろんあの「太鼓の達人」のパロディ)ゲームであるという設定で、叱咤されながら褒め言葉を考えて現実世界のシミュレーションをするというものだ。が、どうにも首を傾げるのは、何とも言えないリズムの悪さである。なかなか役立ちそうな内容なだけに、かなり残念だ。
田山了一
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■