その家は今から90年以上も前、大阪の外れに建てられた。以来、曾祖父から祖父、父へと代々受け継がれてきたのだが……39歳になった四代目の僕は、東京で新たな家庭を築いている。伝統のバトンを繋ぐべきか、アンカーとして家を看取るべきか。東京と大阪を行き来して描く、郷里の実家を巡る物語。
by 山田隆道
第二話
嫌な予感が的中した。深夜三時過ぎに麻布十番の編集所に着くなり、問題の高野昭光の姿が映り込んでいるシーンをすべてカットして、他の映像素材で埋め合わせるという、力技の再編集作業を社長から命じられたのだ。
不幸中の幸いは、他のタレントが活躍している映像素材が思ったより多かったことだ。番組の放送時間は五十分くらいだが、スタジオ収録では二時間以上もカメラを回していたことが奏功した。これなら、なんとかなるだろう。
編集所で待っていた社長の関根は、当初こそ不安げな表情で室内をうろうろ歩き回っていたが、見通しが立って以降はいつもの余裕を取り戻した。
「いやあ、助かったなー。けっこう笑える素材あんじゃん」関根は呑気に言いながら、脱力したようにソファーに腰をおろす。「新一、これなら楽勝だろ?」
「まあ、難しくないっすね」
僕は反射的に応えると、すぐに編集にとりかかった。いくつものモニターと機材が並ぶ電磁波だらけの部屋の中で、編集オペレーターに指示を出す。気持ちが昂ぶっているからか、不思議なくらい眠気はなかったものの、その一方で腹の底から湧きあがってくるドロドロした鬱憤の塊のようなものは消化できない。
まったく、関根はどうかしている。確かに編集は難しくないが、問題はそこではないだろう。この非常識な業務命令については、なんとも思わないのか。
仕事の難易度なんか今はどうだっていいのだ。それより重要なのは時間だ。どれだけ急いだとしても、編集が終わるのは正午過ぎだろう。事前に切符を購入していた新幹線の発車時刻は午前十時。そこに間に合わせるのは不可能だ。
不意に溜息がこぼれた。夏休みの予定を変更するしかない。
亜由美にメールを送った。事情を説明し、亜由美は子供たちを連れて先に大阪に向かってくれ、と伝える。父の仕事のせいで、子供たちの予定まで狂わせたくはない。僕は遅れて大阪に向かうことにしよう。
なんだかんだと思いながらも、結局は業務命令に屈してしまう自分が情けなかった。顔で笑って心で泣く、それが男の粋な姿だと決めつけるのはあまりに乱暴だ。ともすれば、男の弱さを正当化するための詭弁にもなる。
関根が肩を叩いてきた。眼鏡の奥の目が垂れ下がっている。
「新一、夜中に悪いな。これが終わったらパーッと旅行でもしてこいよ」
思わずイラっとした。その予定が狂ったんだよっ。心の中で毒づく。
「ほんと関根さんはハート強いっすね。アッキーに腹立たないんすか?」
「もちろん、多少はそういう気持ちもあるよ」
「多少? それだけ? 関根さんだって、ここんとこ寝てないでしょ」
「おまえよりマシだ。俺は二日前に家に帰ったからな」
「けど、もう還暦前じゃないですか。俺とはわけが違いますよ」
「まあ、我ながら頑丈だなって思うよ。しょっちゅう漫喫とかサウナとかに泊まってる五十代後半の社長なんか聞いたことねえもん。あははー。ウケるー」
関根は手を叩きながら笑った。髪は薄いが、しゃべると若者みたいだ。
それにしても不思議だ。どうして、この人はここまで平然としていられるのだろう。普通ならアッキーにはもちろん、テレビ局にも不満が募るはずだ。
なにしろ、この事態に編集所に駆けつけたのは僕と関根と部下のAD、つまりうちの会社の人間だけだ。テレビ局と一次請けの会社からは誰も来やしない。聞けば、そのへんは昼ごろに顔を出す予定らしい。まったく、いい身分だ。
「関根さんは、この仕事が嫌になったりしたことないんですか?」
なんとなく訊いてみたくなった。過酷な労働に加え、金銭的にも決して美味しいとは言えない孫請け仕事。今回だって一番大変なのは関根のはずだ。うちの会社に管理職など存在しないことを、還暦前の社長自ら実証しているのだ。
関根はしばらく腕組みしたあと、宙を見つめながら言った。
「うーん、本当の意味で嫌になったことは一度もないかもな」
「けど、きつい世界じゃないですか」
「いや、これでもずいぶん健全になったぞ。俺の若いころは殴る蹴るなんか当たり前で、もっと過酷な現場だったからな。タレントのシャブなんてまだかわいいもんだよ。当時はスタッフルームに注射器が落ちてたりしたもんだし」
確かに僕も聞いたことがある。現在のテレビ界もコンプライアンス違反に寛容だと言われているが、これが一九九〇年代以前になってくると、ほとんど治外法権、あるいは無法地帯と言ってもいいほどモラル無き現場だったとか。実際、僕が新入社員だった九〇年代中期は今よりはるかに無茶苦茶な世界だった。些細なミスで上司から膝蹴りを食らい、肋骨を折ったこともあったくらいだ。
正直、僕はそういう風潮が苦手だったりする。別に真面目ぶっているわけではない。ただなんとなく、モラルを否定することを格好良いとするような空気、型破りなことを意識的に求めるような姿勢に古くささを感じてしまうのだ。
「けど、そういう世界もおもしれえじゃーん」関根があっけらかんと言う。「そもそもテレビ屋なんて普通のリーマンになりたくないっていう、変な奴の集まりなんだからさ。バラエティ畑に品行方正を求めてもつまんねえだろ?」
出た、予想通りのパターンだ。関根の言いたいことはよくわかるが、それもまたステレオタイプだと思う。四十年近くもテレビ界に住み続けている男だけに価値観にブレがない。妙な話だが、型破りなことに保守的なのだ。
「ほら、新番組の会議とかになると、みんな子供みたいな顔で『おもしれえことやろうぜ』って言うじゃん。結局、みんなテレビが好きなんだよな。この遊びみたいな空気が好きなんだよ。じゃないと、こんな仕事やってらんねえだろ」
いやはや、この人は本当にテレビが好きなのだろう。職業愛とは、その仕事の内容だけで語られるものではない。その業界に蔓延する風潮みたいなものにまで居心地の良さを感じられる、そういう七難隠すような愛。関根はそれを備えているからこそ、このブラックな労働環境すらもおもしろいと感じられるのだ。
ただし、関根には二度の離婚歴がある。僕が入社したころにはすでにバツイチで、新たに再婚した奥さんがいたものの、その人とも数年後に離婚した。どちらも多忙によるすれ違いが原因で、それぞれの子供とも疎遠になったらしい。
今度はわざと溜息をついた。関根はそういう離婚の過去ですらも勲章や武勇伝のひとつにしている節がある。彼のような精神性の人間じゃないと、この世界ではやっていけないのかもしれない。映像制作が好きだという学生時代からの気持ちだけでは、この風潮までをも愛せないのかもしれない。
考えがまとまらないまま作業を続けた。ひとつだけ確かなことは、子供たちと疎遠になる人生なんか、僕は想像しただけでゾッとしてしまうということだ。
青くさいかもしれないが、あの夏の僕にとってはそれが偽らざる本音だった。
結局、編集作業は午後三時ごろに完了した。七時からの放送には余裕で間に合うため、遅れて駆けつけたテレビ局員連中も機嫌を良くしていた。
やれやれ、悪夢は終わった。編集所から解放されたときの僕は、間抜けなことに心の底から安堵していた。大きな欠伸が口をついていた。今思えば、これはまだ悪夢の始まりにすぎなかったのだが、その予兆さえ感じていなかった。
亜由美と二人の子供はとっくに大阪に着いていた。梅田のグランフロント大阪の前で撮影された子供たちの写真が、編集中にメールで送られてきたのだ。
写真の中には六十七歳になる母の照子の姿もあった。昔も今も小柄で華奢な母は生まれつき体が弱く、酷暑の真夏日に人が多い繁華街に繰り出すのを極端に嫌う人なのだが、それがどうして人ごみの中でピースサインまでしている。久しぶりに会う孫というのは、年老いた母にここまでの元気をもたらすのか。
編集所からそのまま東京駅に直行し、すぐに新大阪行きの新幹線に乗った。宿泊先は実家だから、荷物なんか必要ないだろう。事前に購入していた午前十時発の指定席切符は、それに乗れなかった場合、同日限定で自由席切符となる。
車内は混雑していたが、運良く席を確保できた。ビールとハイボールのロング缶を立て続けに飲む。脱力して目を細めながら、なんとなく宙を見つめた。
車両前方の電光掲示板にピックアップニュースが流れてきた。昨日のプロ野球の試合では、東北楽天のエース・田中将大が球界新記録となる開幕十六連勝を飾ったという。昨年から数えると二十連勝。これも最多タイの記録だとか。
すごいなあ、マーくんは。口の中でつぶやいた。田中将大の出身地は兵庫県の伊丹市で、僕の故郷からそう遠くない。のどかで平凡な、低層の住宅街だ。
あんな小さな街から、こんな大投手が生まれたのか。そう思うと、ますます感慨深くなった。伊丹が生んだ野球少年は、今や東日本大震災で甚大な被害を受けた東北の人々にとって、唯一無二の英雄となった。希望の光となった。
いったい、いつからだろう。自分より年下で、ほとんど同郷の人間が華やかな活躍をしても、嫉妬を覚えなくなったのは。似たような環境で育った人間に対して自分とは住む世界が違うと割り切り、素直に舌を巻けるようになったのは。
二〇一三年八月十日。日本国内の複数の地域で四十度を越える気温を観測した猛暑日の夕暮れどき、僕は新幹線の中でゆっくり目を閉じた。窓から射し込む陽光に赤みがかかっているのか、瞼で覆われた暗闇が少しだけ色づいていた。
新大阪駅の南改札を出ると、正面の出入口から外の景色が見えた。タクシー群の向こう側にネオン街が広がっている。時刻は午後七時過ぎ。猛威を振るった夏の太陽も、僕が寝ている間にすっかり沈んだようだ。西はどっちだろう。
ケータイに亜由美からメールが届いた。暗くなる前に梅田から帰宅して、今は実家で僕の帰りを待っているという。「先にごはん食べてていいよ」とメールを打つと、「もう食べてるよ」と返ってきたので、少し恥ずかしくなった。
メールによると、新大阪駅まで母が車で迎えにきてくれているらしい。
なんとなく不安になった。混雑した駅前のロータリーに、六十代後半の女性がうまく停車できるだろうか。なにしろ、タクシー乗り場からも騒々しいクラクションが何度も聞こえてくるほど、大阪のドライバーは荒っぽいのだ。
それにしても、車のクラクションというものはどうしてこうも不快な音色に設計されたのだろう。本来はドライバー同士の間で注意を促すためのものなのだろうが、ここまで激しく連打されると歩行者の僕まで眉をしかめたくなる。
次の瞬間、ひときわ大きなクラクションが鳴り響いた。視線を向けると、混雑するタクシー専用レーンのど真ん中に堂々と停車している一般の軽自動車が見えた。おそらく誰かを待っているのだろうが、さすがにそこはまずいだろう。
その軽自動車は後方のタクシーから「どかんかい、おらぁ!」と言わんばかりに煽られているものの、一向に動こうとしなかった。よほど図太い神経の持ち主なのだろう。ハザードランプも点けずに、タクシーの営業を妨害している。
よく見ると、ドライバーは母だった。思わず天を仰ぐ。
この騒々しさの原因は奴だったのか。僕はあわてて軽自動車に駆け寄った。周囲の人々に深々と頭を下げながら、運転席に回り込む。顔が熱い。
窓越しの母は呑気に文庫本を読んでいた。さすがだ。おそらく、このクラクションに動じていないのではなく、そもそも気づいてすらいないのだろう。母はなにかに集中すると途端に五感の機能が鈍くなるのか、周りのことが頭に入らなくなる。神経が図太いのではない、神経が一箇所に偏りやすいのだ。
僕が激しく窓を叩くと、ようやく母が気づいた。状況をわかっていないのだろう。僕を見るなり、助手席に座るよう顎でうながす。平然とした表情だ。
母は僕が乗り込むや否や、悪びれることなく車を発進させた。激しいクラクションの嵐の中を、そこのけそこのけ、大阪のおばちゃんが通る。ウィンカーも出さずに危険な右折を繰り返し、あっというまに新御堂筋の本線へ。
「危ない!」
僕はたまらず大声を出した。母がまたもウィンカーを出さずに車線変更をしたからだ。事故にはならなかったが、運が良かっただけにすぎない。
「お母さん、ちゃんとウィンカー出してな」僕が注意すると、母は「ああ、そうやったわ」と思いだしたような声を出し、ハンドルの左横に視線をやった。
「危ない、前見て!」
「なんやの、もう。あんたがウィンカーって言いようから」
「だから、わざわざこっちを見るなって」
「もう、うるさい子やねえ。ウィンカー出せばええんやろ」
「だからウィンカーを見るなって」
「見んと出されんでしょ」
「感覚でわかるやろ」
「ああ、こういうこと?」
「今ごろウィンカー出しても意味ないやん!」
「どっちなんよ、もう!」
だんだんイライラしてきた。大阪を出て二十年、すっかり言葉が標準語に変わったと思っていたが、母と話しているうちに関西弁が戻ってきた。
母の運転が危なっかしいのは、年を重ねたからではない。母は三十代前半のころに運転免許を取得したらしいのだが、その当時から運転が下手くそで、中でも視野の狭さと注意力の欠如は顕著だったと父が言っていた。
それでも本人が小心者であれば己の下手さを自覚して、運転が慎重になりそうなものだが、これがどうして母は家族全員が呆れるほど大胆な性格をしているから厄介だ。こんな有様でも平気な顔をして積極的に運転しようとするのだ。
いや、大胆というのは違う気がする。タクシー群に迷い込んだのだって、クラクションの嵐の中を堂々と発進したのだって、母はまちがいなく無自覚だったはずだ。頭の回路がどうなっているのかはわからないが、とにかく母は万事にあまり気づかないという、とぼけたところがある。簡単に言うと、天然なのだ。
新幹線で酒を飲んだため、僕が運転するわけにもいかない。眠ったのも一時間半くらいのものだ。だから実家までの三十分弱、母に命を預けるしかない。
それ以降も母は相変わらずだった。ウィンカーを出さない車線変更と目的がわからない急ブレーキを繰り返し、さらに直進なのに常にハンドルを左右に動かし続けるという、もはや危険を通り越して奇怪な運転をひょうひょうと続けながら新御堂筋を北上する。背後からのクラクションにもまったく動じない。どこまでもマイペースを貫きながら、やがて京都方面に向かう環状道路に入った。
これで事故を起こさないのだから不思議だ。運転歴三十年強、小さな傷なら何度も作っているが、いわゆる大事故は一度もない。もしや意外にうまいのか。
困惑する僕をよそに、母はおしゃべりに夢中だった。僕の相槌がなくとも、自分勝手にひたすら話し続けるところも相変わらずだ。久しぶりに孫と遊べたことがよほど嬉しかったのか、終始にこやかな表情で「二人とも大きなったねー。しっかりしてきようわー。かしこいわー」と同じ台詞を繰り返している。
「お母さん、珍しいやん。梅田みたいな人の多いとこは苦手なんちゃうの?」
僕がそれとなく訊ねると、母は大きくうなずいて答えた。
「ほんまそれ。二人とも新一に似とうとこがあるからおもろいわー」
ダメだ、まったく聞いていない。思わず笑いそうになった。
いったん自分の好きな話題になると、気が済むまでしゃべり続ける。決して横からの軌道修正には乗らない。それもまた、母らしいところだ。
つくづく厄介な人だが、それでもなぜか憎めないのは、孫の話をしているときの母の表情が崩れ落ちそうなほど柔和で、恥ずかしくなるほど温かくて、僕が幼いころに見た母のそれに近いからだろう。目尻に皺が目立つようになった横顔を見ていると、確かに年老いたなと思うのだが、身内贔屓で愛情深いところは昔のままだ。親は優秀じゃなくてもいい、家族の味方であればいい。
カーラジオから山口百恵の「サヨナラの向こう側」が流れてきた。母が急に無言になる。きっと好きな曲だからだろう。まったく、マイペースな人だ。
昭和二十一年に神戸で生まれた母は、両親が営むテーラー屋が繁盛していたため、けっこうなお嬢様として育ったらしい。「わたしは小さいころから靴下を履いとったんよ」とは母がよく口にする台詞だが、それが裕福の証なのか、僕にはピンとこない。なんでも、テーラー屋の娘だから照子と名付けられたそうだ。
兵庫県神戸市といえば一八六八年の開港以来、明治時代の開国の拠点として西洋文化の入り口となった街だ。外国人居留地が作られたことで海外から多くの人々が訪れ、二十世紀にかけて世界屈指、東洋最大の港町として発展した。
そんな国際的な街で人気テーラー屋の一人娘として育ったからか、母は幼いころから西洋文化を好み、中学校の卒業文集には「将来は海外で服飾関連の仕事をしたい」と書いたという。敗戦国である日本が欧米諸国に追いつこうと必死で復興を目指していた昭和三十年代に、近代ファッション発祥の地である神戸で思春期を過ごした少女が抱きがちな夢だと思う。母いわく、自分の名前を西洋風にもじった「テリー」というブランド名まで考えていたらしい。
ところが、そんな生活は母が十六歳のときに一変する。
母の父母、すなわち僕の母方の祖父母が二人同時に交通事故で亡くなり、テーラー屋は閉店に追い込まれた。さらに店に併設されていた住居も親戚が相続税の支払いのために売却し、残された母はその親戚の家に居候することになった。だから、高校時代の母は夢だった「テリー」を封印し、卒業後はなんでもいいから仕事を見つけて親戚の家を出たい、としか考えなくなったという。
思春期の少女にとって、突然の悲劇と慣れない居候生活はよほど精神的にこたえたのだろう。母は居候先の家のことをあまり話したがらない。そのかわりなのか、父との結婚の経緯については、しみじみと話してくれたことがある。
「わたしがお父さんと結婚したんは、家庭環境に惹かれたからなんよ。栗山家って古いけど家庭がしっかりしとうやろ。地元に根を張っとうし、簡単に消えてなくならん一軒家がある。結局ね、衣食住の中で一番大切なんは住なんよ。わたしは栗山家に嫁に入って、子供が欲しかってん。家と家族が欲しかってん」
これを初めて聞いたとき、僕はそれまでなんとなく感じていた疑問に答えが見つかったような、そんな感覚になった。母が嫁いできた昭和四十年代中期、大阪の中でも屈指の田舎町にあった栗山家はまだまだ専業農家の名残が色濃く、お祝い事になると鶏小屋で飼っている鶏を素手で絞め殺して食べる、なんてことも珍しくなかったそうだ。そんな栗山家の嫁に神戸育ちのお嬢様はあまり適さないと思っていたのだが、そうかそうか、そういうことだったのか。
だから母は大阪の外れにある栗山の家が好きだという。築九十年以上の、ひび割れて傾いた古くさい家ですら、まるで自分の人生を救ってくれた宝物のように愛しているという。その家で生まれ育った僕がその家を嫌って飛び出し、その家に途中から入った母がその家に愛着をもっている。なんだか妙な話だ。
午後八時前、久しぶりに実家の敷居をまたいだ僕は、まずは着替えを済まそうと一階の客間に足を踏み入れた。子供たちは先に夕食を終え、リビングでテレビを見ている。亜由美は僕と父母の夕食の準備を進め、母は家に着くなり風呂掃除を始めた。父は自治会の会合に出かけており、八時過ぎに帰ってくるという。
高校生まで僕が自室として使っていた和室は、僕の上京以降、六歳下の妹の部屋となったのだが、その妹もすでに結婚して家を出ているため、今は物置同然となっている。だから、僕らが帰省したときは客間を使用するのが通例だ。
この客間はよりによって仏間の隣にある。陽当たりは悪いわ、線香の匂いが充満しているわ、埃をかぶった気味の悪い日本人形が無表情で佇んでいるわ、黄ばんだ掛け軸には「南無阿弥陀仏」と書かれているわ、とにかく子供が不眠に陥るような和室だ。襖も障子もあちこち破れており、畳もささくれだっている。
それにしても効率の悪い家だ。一階には六部屋、二階には二部屋もあるというのに、そのうち現代的な生活空間として使用できているのはダイニングとリビング、父母の部屋それぞれの四部屋だけだ。あとは仏間であったり客間であったり物置同然であったり畳が腐っていたり、延べ面積を無駄にしているとしか言いようがない。祖父母が亡くなり、僕と妹が家を出た今、この家で暮らしているのは父母の二人だけなのだから、そういう問題が表面化しにくいのだろう。
「いつかは建て替えるんだろうな」
不意に独り言が口をついた。けれど、すぐにかぶりを振る。
今さら建て替えたところで、いったい誰が住むというのだ。僕らは東京に住んでいるし、妹は大阪市内にある夫の実家に入っている。七十歳近い父母の余生のためだけに、わざわざ大金をかけて建て替える必要もないだろう。要するに、僕にその気がないのなら、この家の歴史は父の代で終わりということだ。
そう思うと、なぜか胸がざわついた。ほんの一瞬だけ、確かにざわついた。
この奇妙な胸騒ぎの正体はいったいなんなのだろう。それを考えようとしたのだが、あいにく邪魔が入る。亜由美の狼狽したような声が聞こえたのだ。
「ちょっと新ちゃん!」
「どうした?」僕は客間を出て声の方向にゆっくり歩を進めた。亜由美は風呂場の前で、どういうわけか立ち尽くしている。蒼褪めた表情だった。
近づくと、風呂場のドアが開いていることがわかった。蛇口からお湯が出る音が聞こえる。亜由美は風呂場を見つめたまま、なにも言葉を発しなかった。
「どうした?」
僕は同じ言葉を、だけど今度は訝しげに口にして、たゆたう湯けむりの向こう側に視線を送った。灰白い煙幕に包まれた、狭い背中が見える。
母が倒れていた。浴槽の縁に覆いかぶさったまま、まったく動いていない。
浴槽に溜まったお湯の表面で、黄土色の吐瀉物が渦を巻いていた。だらりとした力感のない母の左腕だけが、渦の下でゆらゆら揺れている。
うつむいた母の横顔をのぞきこんだ。薄目の下に涙の跡が見えた。
(第02回 了)
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* 『家を看取る日』は毎月22日に更新されます。
■ 山田隆道さんの本 ■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■