その家は今から90年以上も前、大阪の外れに建てられた。以来、曾祖父から祖父、父へと代々受け継がれてきたのだが……39歳になった四代目の僕は、東京で新たな家庭を築いている。伝統のバトンを繋ぐべきか、アンカーとして家を看取るべきか。東京と大阪を行き来して描く、郷里の実家を巡る物語。
by 山田隆道
第三話
あの夏、僕が鮮明に覚えているのはそこまでだ。
風呂場で倒れている母を発見して以降、なぜか記憶が線から点に変わった。病院でどこかに電話をしている父の姿や、その父が着ていた白いポロシャツの裾に醤油みたいなシミがついていたこと、病院からの帰りに乗車したタクシーの運転手が横柄だったので妹が憤慨していたことなど、いくつかの場面は思い出せるのだが、それぞれの前後の記憶が不思議なくらい抜け落ちている。場面と場面が線でつながっておらず、脳内のあちこちに点在している感じだ。
実家からどうやって病院に向かったのか。父と妹にはいつ連絡したのか。亜由美と子供たちは病院にいなかったが、その間どうしていたのか。思い出せない場面があまりに多すぎて、自分の頭をはたきたくなる。人間の脳とは、大きなショックを受けると電化製品よろしくトラブルを起こすものなのか。
あとで亜由美から聞いたところでは、母が倒れたあの日、僕は亜由美と子供たちは実家で待機しておくよう指示したという。情けないことにまったく記憶にないが、きっと子供にはまだ刺激が強すぎると咄嗟に判断したのだろう。
翌日も翌々日も、僕の記憶はそんな調子だ。子供たちと約束していた予定はすべて中止にして、急用に忙殺されるばかりだったから、細かいことは覚えていない。とにかく超高速の早送り映像のように状況を判別できないまま日々が流れていき、気づけば東北楽天の田中将大は連勝記録をまたひとつ更新していた。
東京に戻って以降は、それなりに記憶が線としてつながっている。
といっても、特別なことはなにもない。僕は帰京した翌日から大日本テレビの番組会議に出席して、その数日後にはロケで湘南海岸に出向いた。派手な水着姿の若い女の子に声をかけては、その見た目から胸のカップ数を推測して当てるというゲーム企画で、ロケが終わってからは急激にむなしくなった。
その後は怒涛の編集作業だ。夜遅くまで会社に居残って、自前のパソコンで仮編集をしながら、その合間を縫って新番組の企画書を三本作成した。どれも自分ではまったく興味がない企画だったが、関根が懇意にしているテレビ局員からの依頼だったため、いわゆる社長命令としてしたがうしかなかった。
一方、家族はというと、そっちも特に目立ったことはなかった。亜由美は近所のファミレスで週に何度か日中限定のパートをしていて、子供たちは勉強に遊びに習い事にと、普段通りの夏休みを元気に過ごしていた。
八月も終盤になると、子供たちは部屋にこもることが増えた。僕が子供部屋をのぞくたびに、隣同士に並べた勉強机に向かう二人の背中が見えた。最初は二人とも夏休みの宿題を溜め込んでしまったのだろうと思っていたが、実際は小五の孝介だけが溜め込んでいたようで、小二の秋穂はとっくに終わらせたという。
それなら秋穂はいったいなにをやっているのか。ある夜、そう思って二人を注視してみると、どうやら秋穂は孝介の宿題を手伝っているようだった。読書感想文を書く孝介の隣で、秋穂が小五用の計算ドリルに取り組んでいる。二人とも集中しているからか、僕がのぞいていることに気づいていないようだった。
「五年生の算数なんかわかるわけないじゃーん」
秋穂がもっともな文句を垂れると、隣の孝介が「答えなんか間違っててもいいから、適当に数字を書けって言っただろっ」と苛立ち気味に抑えつけた。
「それじゃあ、全部バツになるよ?」
「いいんだって、それでも。宿題を終わらせることが大事なんだから」
「字だって、お兄ちゃんのと全然違うよ」
「俺の字って言い張るから大丈夫」
「ええー。そんなのありなのかなー」
「いいから言う通りにしろって。俺のジュースあげただろ」
「冷蔵庫のプリンも食べていい?」
「全部終わったらいいよ」
「やったねー」
秋穂はいとも簡単に買収された。その途端、まるでターボがかかったように鉛筆を動かしだす。「おいおい、いくらなんでも適当すぎるぞっ。〇.〇六×〇.五が一億のわけねえだろ!」途中で孝介がクレームを入れると、秋穂は「お兄ちゃんがバツでもいいって言ったんじゃん」と抗弁した。
僕は思わず吹き出しそうになった。本来ならズルをしている孝介を叱るべきなのかもしれないが、なんとなく微笑ましかったので不問にした。
二人は兄妹なのに性格がまったく違う。いいかげんで要領の良い孝介と真面目で優等生タイプの秋穂。孝介は兄の権限を使って秋穂に無理難題を押しつけるところがあって、それを秋穂はよく嘆いているのだが、それでも二人は不思議なくらい仲が良い。寝坊癖があって身支度も遅い孝介に、時間に正確な秋穂がわざわざ付き合ってしまい、二人そろって学校を遅刻したことも何度かあった。
それでも成績が良いのは孝介のほうで、秋穂は平均的らしいから、子供とはわからないものだ。孝介はこんな性格をしているくせに、テストになるとなぜか高得点を連発する。亜由美いわく、成績は学年でダントツらしく、二学期からは中学受験も視野に入れて進学塾に通うことになっている。中学受験といっても、東京なら学費の安い国公立がある。それなら経済的にも大丈夫だろう。
とにかく、東京での生活は平和そのものだった。大阪での悪夢が文字通り夢だったかのように、以前と変わらない通常営業の日々が過ぎていく。
ただし、ひとつだけ変わったことは僕の帰省の頻度だ。八月の中旬に帰省したばかりだというのに、それから週に一回は日帰りで帰省するようになった。
九月八日の日曜日もそうだ。二〇二〇年の夏季オリンピックが東京で開催されることが決定し、東京が世界中から脚光を浴びた日の朝、僕は新大阪行きの新幹線の中にいた。心なしか、いつもより西を目指す人が少ない気がした。
その日、僕は三十九回目の誕生日を迎えた。
昼前に新大阪駅に着くと、そのまま大阪北部にある総合病院に向かった。小高い丘陵地の頂にたたずむ瀟洒な建物の壁には、ところどころ深緑の蔦が太陽に伸びるように絡まっていて、まるで昔の甲子園球場みたいだ。
一人部屋の病室では、母がまた少し縮んでいた。
枯葉のように生気を失った黄土色の顔、げっそりと痩せこけた頬。一週間前に見舞ったときよりも、さらに衰弱しているように見える。自発的に呼吸はしているものの、それ以上の人間らしさ、つまり意識は感じられない。
もう一か月近くも、こんな状態が続いている。八月十日の夜、母は意識不明のまま病院に搬送されると、脳の表面を覆う膜の下に出血があると診断された。なんでも脳の動脈瘤が破裂したのだという。いわゆるクモ膜下出血だ。
医師が言うには、クモ膜下出血は高齢になればなるほど女性のほうが発症しやすいらしい。なんの前兆もなく突発的に襲われることが多いため、普段から生活習慣を正して、高血圧による動脈硬化を引き起こさないようにすることが一般的な予防法だとか。もちろん、一般的というからにはそれで完全に防げるわけではない。実際、酒もタバコもやらない母にも降りかかってきたのだ。
最初にそれを聞いたとき、僕は母の死を覚悟した。クモ膜下出血、詳しいことは知らなかったが、その危険度はあまりに有名だ。三十パーセント強の人が出血と同時か、あるいは病院に搬送されている最中に死亡してしまうらしい。
そう考えると、緊急手術の結果なんとか一命をつなぎとめた母はそれだけでも幸運なのだろう。グレード四という危険な状態だったにもかかわらず、母はなんとか急死を免れ、現在は意識回復を目指して入院生活が続いている。
しかし、その意識が一向に戻らない。あれから週一ペースで見舞いに来ているが、ずっと寝たきりのままだ。もう二度と目を覚まさないのかもしれない。
ベッドで仰向けになる母を見つめた。何度も何度も、母が倒れたときのことを想像してしまう。あのとき、母の目の下には涙の跡があった。医師いわく、クモ膜下出血の発症は後頭部をバットで殴られたような激痛を伴うものらしい。
もしかしたら母は痛くて泣いていたのかもしれない。それとも、自分に襲いかかってきた運命を悲嘆し、思わず涙が溢れてしまったのか。
往時の母は病弱な反面、心の強い女性だった。神戸のお嬢様育ちから突然の不幸、そして急転直下の居候生活を経て、古い家の長男に嫁ぎ、今日まで栗山家を支えてきた。嫁入り当初は姑や小姑にいびられたらしいが、後年はそれを笑い話にして彼女たちと付き合ってきた。三十九度の高熱がありながら法事をやり遂げたこともあった。骨折を打撲だと言い張って、家事をしていたこともあった。
「お母さん……」不意に小さな声がこぼれた。胸が苦しくなる。
神様は試練を乗り越えられる者にしか試練を与えない。巷でよく耳にする、そんな言葉が苦々しくてたまらない。単細胞が安易な自己啓発で使う月並みな常套句、あるいは座り心地の良い言葉を並べた広告のコピーとしか思えない。
だいたい、どんな試練でも乗り越えられるような強い人間がいたとして、どうして神様はそんな人にわざわざ新たな試練を与えるのか。その必要がどこにあるのか。ただの悪戯か、嫌がらせか。それとも神よ、あなたはサディストか。
病室を出ると、待合ロビーの奥から男性の声が聞こえた。
「いつまでもあっこに置いとくのもあれなんでねえ。はよう葬儀屋さんにあれしてこれしてって、そらもう、会館まであれせなあきませんねん」
それだけでピンときた。「あれ」だの「これ」だのと、指示している言葉が不明瞭なわりに指示語をやたらと駆使する、迷惑な口調。きっと奴だろう。
「ああ、そらもう、そうですか。仮通夜をそっちでやってから、あっちは本通夜で? まあ、それやったら、あれですわ。ひとまず自宅まであれしたら、なんとかなりますわ。もしあれでしたら、私が手配してもええですよ。普通は運んだあとであれすんのは具合悪いんですけど、その融通もあれしますから」
こんな独りよがりの不親切な説明でも、その意味をなんとなく理解できてしまう自分が怖い。きっとどこかの病室でご臨終があったのだろう。ロビーの奥に遺族らしき人が集まっており、その輪の中に声の主がいる。
「医者の診断書と届けをあれしてね、火葬の許可証をもらいますねん。日時もお寺さんとあれせなあきませんし、あっちゃこっちゃにあれしてこれしてって、色々ありますから、喪主さんだけにあれせんと手分けしたほうがええですわ」
声の主はやっぱり父の幸雄だった。
かわいい子犬のイラストが散りばめられたサマーニットを着て、小さな蛇が複雑に絡み合っているかのような白髪まじりのクセ毛を整髪料で固めている。ポマードなのかデップなのか、とにかく髪の艶が昭和っぽい。年齢は母と同じ六十七歳だが、身長が百八十センチもあって筋肉質だからか、やけに元気で若々しく見える。実際、父は病気知らずの頑丈な肉体の持ち主だ。
僕は思わず唾を飲みこんだ。全身に緊張が走り、一瞬にして体が硬直したのが自分でもわかる。父の大きな体を目にすると、昔からこうなってしまう。
父は遺族らしき人たちに自分の名刺を渡していた。それを見ただけで、すぐに察しがつく。おそらく父は彼らと今日初めて知り合ったのだろう。いつものように母の見舞いに訪れたところで、たまたま葬儀の相談をしていた彼らの話が耳に入り、持ち前の老婆心と商売根性がうずきだしたに違いない。
父は地元で霊園管理や開発、墓石販売などの会社をいくつか経営している。最近ではエンディングサポートと言うらしいが、要するに葬祭ビジネスだ。
それに加えて、他人の御家事情に遠慮なく首を突っ込む大胆な性格。本人は良かれと思っているから、言動に迷いがない。この病院とは昔から親密で、病院紹介のエンディングサポートを請け負っているから、院内でも我が物顔だ。
実際、父のそばを通りがかった看護師たちは、みんな父に頭を下げていた。普通、部外者がこれだけ偉そうにしていたら煙たがられそうなものだが、それでも誰も異を唱えないのはきっとあれだろう。父の見た目が怖いからだ。
怖そうな男とは往々にして他人から注意されにくい、と僕は勝手な仮説を立てている。下手に接触してトラブルになりたくない、要するに怒らせたくない。そう考えて、やり過ごすのが一番だから、怖そうな男は自分を省みる機会が少なくなる。その結果、やけに自信満々の大人ができあがるのだ。たぶん。
僕は父と目が合った途端、無意識に会釈をした。本当はトイレにでも隠れてしまいたかったが、一歩一歩近づいてくる父を前にすると足がすくんでしまう。
父は僕の前で立ち止まった。本人は無表情のつもりなのだろうが、目が吊り上がっているから睨んでいるように見える。僕は自他共に認める母親似だ。
「おう、もう帰るんか」
十センチ以上もの高さから低く野太い声が落ちてきた。
「うん、その予定やけど……」
「それで、どうやったんや?」
「え?」出た、いつもの言葉足らずだ。返答に窮してしまう。
「おう、そらもうあれや。見てきたんやろが。どうやったかって聞いとる」
父はますます目を吊り上げた。どうしてそう、威圧的な空気を出すのか。僕は必死で父の意図を読もうとした。きっと母の様子のことだろう。
「ああ、お母さんなら状況は変わらずやったけど……」
「違うわ!」
いきなり怒鳴られた。思わずビクッとしてしまう。
「アホか、そんなはずないやろうが! そらもうあれや。最近はちょっと顔色ようなってきたはずや。医者も言うとったからあれやぞ。間違いないわ!」
「あ、ああ」
曖昧な返事しかできなかった。父の質問の意図は正しく読めていたのだが、その答えが父のお気に召さなかったようだ。まったく、なんだそれは。
正直、母の顔色が良くなっているとは思えなかったが、父が自分の求める答え以外は認めないという、いかにも父らしい空気を発していたので、本音を呑み込むことにした。こんなところで父に反論したってしょうがないだろう。
「そうやね。お母さんの顔色を見て、俺もなんか安心したわ」僕は父に迎合するような言葉を適当に並べた。「たぶん、この病院の処置がええからやろうね。建物は古いのに中は綺麗やし、設備も充実してるみたいやし」
父は満足そうな笑みをたたえていた。「そうやそうや、そらあれや」と相槌を打つ。僕はようやく安堵した。肩が一気に軽くなったような気がする。
「ここは何回か内装のあれをやっとるし、あれしてこれしてって、設備もちょこちょこ入れ替えとるんや。しかも、あれやぞ。うちの会社で業者を安く世話したったからな。せやから、ここはあれや。俺の庭みたいなもんや」
「へえ、そうなんや。すごいなあ」父の太鼓を持ってしまう自分がつくづく情けなくなったが、それでも口が止まらない。「まあ、お母さんもこの調子やったら大丈夫やろ。この病院に任せておけば、来年には歩いてるんちゃう?」
ところが、そこで父の表情が一気に険しくなった。
「アホか、それはないわ!」
「え?」
「おまえ、アホかっ。お母さんはあれやぞ、開頭手術のあれをしたんや。そんなもん、簡単なあれちゃう。下手したら死ぬまで意識が戻らんっちゅうあれも考えたうえで、慎重に見守っていかなあかん。楽観すんのは早すぎるわ!」
もう本当に嫌だ。どうして三十九歳にもなって、しかもその誕生日に、こんなことで父に怒鳴られなければならないのか。軽い冗談のつもりだったのに。
僕は昔からこうだ。父とまともに話せないまま大人になってしまった。
父と息子の会話がないのではない。はたから見たら、会話自体は多いほうだと思う。しかし、それは会話がなくなることを恐れた僕が、父を前にすると必死で沈黙を埋めよう、あるいは重苦しい空気をうっちゃろうとするからだ。
「おい新一、おまえ帰るんやったらあれや。車で送ったろか?」
せっかくの父の提案だったが、僕は適当な理由をつけて断ることにした。「ありがたいけど、これから予定があんねん」申し訳なさそうな表情を繕いながら、父を残して、その場から立ち去る。急ぎ足で病院をあとにした。
これ以上、父と二人になるのは避けたかった。これまでの見舞いでは運悪く父と時間が重なってばかりだったため、いつも支配的な空気を味わうはめになっていたが、今日はすれ違いで助かった。この幸運を逃さない手はないだろう。
僕の中には、幼いころに父と遊んだ記憶がほとんどない。一緒にキャッチボールをしたことも、ザリガニ釣りや蝉取りを教えてもらったことも、肩車をしてもらったことも、僕が覚えている限りでは一度もなかったのではないか。
父は僕が生まれる直前から幼稚園の年中くらいまでの間、最初に勤めた会社の関係で九州に単身赴任をしていた。だから、そもそも父との接触自体が少なかったのだろう。「俺がたまに帰ってくると、新一はあれや。俺の顔を見て泣きよるんや。知らんおっさんを見るような顔でピーピー言いよんねん。ほんまあれや。抱っこもさせてくれんかった。情けない話や」とは、いつかの父の弁だ。
小学校に入って以降は、父に怒られた記憶ばかり残っている。「まったく情けないのう、おまえは!」「なにをコソコソしとんじゃ、アホ!」「言い訳すんな、アホんだら!」この三つの言葉が特に印象的だ。それぞれの背景までは覚えていないものの、とにかく父が怖くて、いつもびくびくしていた。
結局、それが原風景なのだろう。それが僕の心のベースにあり、さらにその後も父の望むように生きられなかったから、いまだに父の顔色ばかりうかがってしまう。父は僕と違って気が強く、何事も攻め続けるタイプの男だ。きっと内心では気弱で保守的な僕のことを頼りない長男だと思っているはずだ。
電車で新大阪駅を目指した。母の見舞いで帰省するようになって以降、実家に立ち寄ったことは一度もない。母のいない実家で父と差し向かいになるなんて御免だから、いつも東京にとんぼ返りしていた。今日もそうする予定だ。
ところが、その予定が狂った。新大阪駅で東京行き新幹線の切符を買おうとした、まさにそのとき、大切な用事を忘れていたことに気づいたのだ。
その用事は今の僕にとっては死活問題だから、どうしても今日中に済まさないといけないのだが、そのためには父に再び会う必要がある。くそう、とんだ大失態だ。さっき父に会ったというのに、一番大事なことを忘れてしまうとは。不意に父に怒鳴られると、いつも思考になんらかのエラーが出てしまう。
ええい、しょうがない。僕は大きく息を吐いた。気乗りはしないが、こうなったら実家に立ち寄るしかない。背に腹は代えられないとは、このことだ。
再び大阪北部に向かう電車に乗り込んだ。ああ、憂鬱だ。
車窓の景色を眺めていると、『霊園・墓石・仏具 総合エンディングサポートの栗山メモリアルサービス』という大きな看板が目に入った。
この会社の源流は僕の曾祖父にある。戦前の栗山家は専業農家だったが、戦後に曾祖父が自前の田畑の一区画を共同墓地にして、さらに墓石販売を主業とする石材屋を開業したことで専業が兼業に変わった。その後、事業を一気に拡大して栗山家から農業の色を完全に消したのは、二代目の祖父と三代目の父だ。
特に父は根っからの商売人だった。最初に勤めた会社を辞めて家業を受け継ぐと、石材屋を振りだしに、いくつもの関連会社を成功させた。地元で霊園の開発や管理、永代供養、葬祭事業、おまけに不動産管理にまで進出したのだ。
高校生のころの僕は、そんな父の仕事も嫌いだった。人が死ぬたびに父が儲かる仕組みになっていることが、不快でたまらなかった。身内を亡くして悲しみに打ちひしがれる人たちが、父に深々と頭を下げる。父は父で、彼らの前で堂々と電卓をたたく。そんな光景が当時の僕には卑しく、下品に見えた。その仕事で得た金銭も、その金銭で生活している自分も、汚く不謹慎なものに思えた。
父は祖父や祖母が死んだときも、てきぱきと葬儀を進めるだけで、悲しむような素振りを一切見せなかった。母が倒れたときもそうだった。最初はさすがに驚いた様子だったが、手術が成功して以降はいつもの居丈高が復活し、もしものときの相続対策などに動き出した。父は人の死に慣れているのだろうけど、だからといって長年連れ添った妻の一大事を前にしても、いつもと変わらないのはいかがなものか。葬祭ビジネスとは、人から涙を奪ってしまうものなのか。
千里中央駅からモノレールに乗り換え、地元の駅に辿り着いた。周辺にこれといった施設や賑やかな商店街などがない、小さく静かな駅だ。
実家までの十分強の道のりを歩いた。子供のころに遊んだ河川敷沿いの道に出ると、生まれ故郷に帰ってきたという実感が湧いてくる。川幅は広いわりに水量が少ないところは昔とちっとも変らない。昔とちっとも変らないから、近年では御法度の歩きタバコに手を出してしまう。九月に入って以降、蒸し暑さも少しは和らいできた。ゆっくり吐き出した紫煙が風に吹かれて、自分の顔に舞い戻ってくる。罰が当たったような気分になり、思わず苦笑してしまった。
途中で古びた住宅街に入った。その奥の一角に、ひときわ古い瓦葺の屋根と苔だらけのブロック塀が見える。僕が生まれ育ち、僕が嫌った家だ。
シャッターのないガレージに父のグロリアが停まっていた。見舞いから帰ってきているようだ。家の中に父がいると思うと、緊張感が高まってくる。
門扉を開けて中に入った。あらためて古く汚い家だと思う。割れた花瓶や植木鉢の破片が庭のいたるところに転がっており、放置したままのゴミ袋の山にハエがたかっていた。よく見ると、その周辺の地面が湿っている。きっと生ゴミの汁でも漏れ出したのだろう。カラスにでも狙われたか。
相変わらず汚いなあ。僕は一瞬顔をしかめたものの、すぐに不審に思った。
いや、ちょっと待てよ――。
相変わらず、ではない。いくらなんでも、いつもの栗山家はここまで汚く散らかっていない。家が古いための、経年劣化が激しいだけだ。
妙な胸騒ぎがした。急いで裏口に回り、錆びついたドアに手を伸ばす。
家の中に足を踏み入れた途端、思わずむせ返りそうになった。強烈な異臭が鼻を刺激する。暗がりの廊下の奥から、得体の知れない冷気を感じた。
(第03回 了)
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* 『家を看取る日』は毎月22日に更新されます。
■ 山田隆道さんの本 ■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■