Interview:荒木経惟 (2/3)
荒木経惟:昭和五年(一九四〇年)東京市下谷区(現・台東区)三ノ輪に生まれる。父・長太郎は「にんべんや履物店」を営む下駄職人。母は上州(群馬県)の人。東京都上野高等学校、千葉大学工学部写真印刷工学科を卒業後、電通にカメラマンとして入社。三十九年(六四年)写真集『さっちん』で第一回太陽賞受賞。四十六年(七一年)青木陽子と結婚。四十七年(七二年)電通を退職しフリーになる。平成二年(九〇年)陽子氏死去。二十二年(二〇一〇年)愛猫・チロ死去。陽子氏、チロの死の前後撮影した写真集『センチメンタルな旅・冬の旅』、『チロ愛死』が大きな話題を呼ぶ。二十年(〇八年)に前立腺癌の手術を受けるが現在も旺盛に活動中。オーストリア科学芸術勲章、毎日芸術特別賞など受賞多数。
荒木経惟氏の芸術の評価は高い。特に欧米での評価は絶大である。また現代アートでもコマーシャル・フォト、ドキュメンタリーでもなくその全てを含み、かつ写真と現代アートといった芸術ジャンルの敷居を軽々と超えてゆく荒木氏の芸術は空前絶後である。荒木氏のように自由な芸術家は世界中を探してもいないだろう。また荒木氏は「私写真」を原点にしており、それは私小説に代表される日本文化の根幹に迫るものである。今回は現時点での荒木氏のお考えや思いをできるだけありのままに語っていただいた。なおインタビューは金魚屋アドバイザーの小原眞紀子氏と鶴山裕司氏にお願いした。。
文学金魚編集部
■モデルとの距離について■
───ちょっと失礼な質問になるかもしれませんが、荒木さんはけっこう風俗嬢を撮られています。まあそういう女の子にはいろいろあるわけですが、ほとんどトラブルがないようですね。
荒木 だって優しいもの俺は(笑)。
───優しいのか冷たいのか、どっちでしょうか(笑)。
荒木 冷たくないよ(笑)。具体的に聞いたことはないけど、女の子たちと通じるものがあるんじゃないかな。昔あったトラブルは、マネージャーが付いてる女の子を撮った時とかだな。女の子本人はノリノリなんだけど、許可なく写真出したとか、こういう写真は困るってプロダクションが言い出したっていうトラブルはあったね。でも女の子との間でほとんどトラブルはないよ。今は女の子たちの方から撮ってくださいってファンレターがいっぱい来るんだからね(笑)。売り出し中の女優さんなんかで、俺に撮ってほしいって子も多いんだけど、マネージャーやプロダクションが俺が桜田門に行ってた時代のことを覚えていて、許可してくれないんだな。なにされるかわかんないって(笑)。
『déjà-vu』 フォトプラネット発行 河出書房新社発売
平成三年(一九九一年)四月十日刊 より
───『写真時代』の頃の末井昭編集長は大変だったようですね(笑)。
荒木 末井さんは偉いよ。ほぼ毎月警視庁に始末書書きに行ってたから、警察官と友達になっちゃったりしてね(笑)。末井さんは根性がある。「雑誌に載せる載せないは俺が決めるから、荒木さんは好きに撮ってくれ」って感じだった。俺は自由に撮ってそのまま渡して、末井さんが写真を選んでた。でも末井さんは、必ず警視庁から呼ばれるのを出しちゃうんだな(笑)。末井さんはイエスの方船事件があったときに九州まで行って、偽クリスチャン(?)になって千石イエスと仲良くなった人なんだからね。
───『写真時代』での末井さんと荒木さんのコンビは最強だったんじゃないでしょうか。末井さんも『写真時代』が廃刊になったあと、『パチンコ必勝ガイド』や『楽しい熱帯魚』と、ぜんぜん毛色が違う雑誌でまた当てたわけですから、天才的編集者ですよ。
荒木 神蔵美子っていう女流写真家がいるじゃない。末井さんは今神蔵さんとくっついてて、神蔵さんはついこの間『たまきはる』っていう写真集を出して、今恵比寿のNADiff Galleryで写真展をやってるんだ(二〇一四年十二月十二日から二〇一五年一月二十五日まで)。これがいいんだね。ものすごくいい。『たまきはる』は末井さんと知り合った頃から、お父さんが亡くなった時くらいまでの、十年間くらいの作品をまとめた写真集だよ。末井さんは、そういうしっかりした魅力ある女性がくっつくくらい魅力あるんだよ。末井さんは俗に言う、スケールがでかいとかそういう言葉には当てはまらない、いい意味でのずぼらなスケール感があるんだ。
───僕は神楽坂の写真診療所に、仕事で写真を取りにうかがったことがあります。「現代詩手帖」の仕事で伊藤比呂美さんの詩集『テリトリー論』の写真をもらいに行ったんですが、その時の写真は男性器と女性器の拡大写真でした。荒木さんは「今回は大サービス」と上機嫌でしたが、なかなか『写真時代』のようなわけにはいきませんでした(笑)。
『テリトリー論 1』
伊藤比呂美著 荒木経惟写真
昭和六十二年(一九八七年)三月十日 思潮社刊 より
荒木 「現代詩手帖」は富岡多恵子さんを紹介してくれたし、伊藤比呂美もそうだな。
───「現代詩手帖 臨時増刊 富岡多恵子」(昭和五十一年[一九七六年]五月)の写真はよかった。どんな文章が掲載されていたのか忘れてしまいましたが、荒木さんが撮った写真だけははっきり覚えています。
荒木 富岡さんは文章もいいし、写真を撮っても素晴らしいんだけど、本棚をバックにした写真だけはイヤだ、それだけはダメだって断られたな。そういうタイプなんだ。また旦那の菅木志雄が偉くてさ。同業だから、撮影が始まるとパッといなくなる。そうするとやりいいじゃない。撮影が盛り上がってくると、じゃ、ヌードやっちゃおうかってことになる(笑)。その時の富岡さんがまたいいんだ。「木志雄に聞いて。木志雄がOKだったらいいから」って言うわけさ。そういう男を立てるところが富岡さんはいいんだよ。
撮影では家出少女の設定ってことで、新宿のステーションから出て、男に連れられてラブホテルに行くってのを撮ったんだけど、富岡さんはラブホテルの門を出たり入ったりするとか、全部付き合ってくれるんだな。俺はその頃からダジャレで「女在感」とか言ってたけど、富岡さんはそういう人だもの。〝ここに女在り〟って感じだな。アタシがどっかに書を書いて発表した時、「絶対書の先生についちゃダメよ、そのままで、我流で行ってちょうだい」って言ってくれたのが富岡さんなんだ。今や書家たちが俺の書に嫉妬してるんだから(笑)。
『現代詩手帖 5月臨時増刊 富岡多恵子』
昭和五十一年(一九七六年)五月十日 思潮社刊 より
───『写狂老人日記 嘘』の書は、ちょっと中国の古代文字みたいです。
荒木 「嘘」の「口」のところが丸いだろ。「この丸いのはね、レンズなんだよ」とか言ってダマすわけさ(笑)。そうするとレンズとうつろ(虚)の組合わせになるだろ。そういう大道芸みたいなことをやるわけ。最初はそんなことを考えていないんだけど、見てるとこの手が引っかかるんじゃないかとか思って、後からそんなこと言い出すんだよ。自分も罠に引っかかってるようなもんだけどね(笑)。でもそういうのが面白いんだ。
───タカ・イシイギャラリーで拝見した巨大なパネルはコラージュで、ペインティングされたボードの上に芸能人の写真や外国の新聞記事の写真などが貼ってあり、その横に緊縛写真があるという感じの作品でした。正直、これは大家の作品だなぁと思いました。美大生が同じような作品を作ったら多分先生に叱られる(笑)。また同じような作品は作れるかもしれないけど、やっぱり荒木さんの作品と確信の度合いが違うでしょうね。
荒木 今の若いやつらの作品がつまんないのは、一本気なんだよ。なんでもやっちゃう、なんでも魅力があるんだってところが伝わってこないのよ。頭でっかちのコンセプチュアルになっちゃう。もしかすると探せば神はいるかもしれないけど、そればっかり撮ってたってしょうがないじゃない(笑)。万物がすばらしいんだけど、拡がりがないんだね。世の中は赤い点、黄色い点、緑の点とかまぜこぜなんだから。それをなんでやんないのかなって思うね。
■ペインティングを始めた頃■
───荒木さんの写真は初期はモノクロが多いですね。また『センチメンタルな旅』(昭和四十六年[一九七一年])頃までに四、五冊自費出版でモノクロ写真集を出しておられます。これはお金の問題もあったと思いますが。
荒木 自費出版はカラーでは出せないよ。モノクロかカラーかってのは、やっぱり金の問題が大きいよね。
───奥様の陽子さんがお亡くなりになった頃(平成二年[一九九〇年])からカラー写真が増えますが。
荒木 陽子の一周忌の時に写真展を開いたんだけど、安藤忠雄さんが作ったような荒削りのコンクリート壁のギャラリーだったわけ。そこにモノクロ写真を展示するのはあまりにも切ないから、それで写真にペインティングし始めたのよ。それがペインティングの始まりだね。殺気とかっていう〝気〟の問題があるじゃない。その色〝気〟だよね。今写真展をやる時も、モノクロとカラーの写真をいっしょに見せたくなる。
───荒木さんの写真はクリアなんだな。隅々までくっきり写る。こんなこと言ってもしょうがないですけど、すごくうまいです(笑)。
荒木 俺はうますぎるんだよ。抑えてるんだ(笑)。昔はフレーミングだって、俺が通り過ぎた町は四角い穴がいっぱい空いてるぞって言ってたくらいなんだ。今はいつでも、どこでも写真が撮れるんだから、フレーミングすることないなんて言ってるけど、実はうるさいんだよ(笑)。
───gallery VERITAは覚えておられますか。『空景・近景』の写真展をやったギャラリーなんですが。今日はgallery VERITAで買った『空景・近景』の中の一枚を持ってきました(『空景・近景』の写真を出す)。
荒木 あ、これ、すごい(笑)。個展やってから初めて実物に再会したな。この作品は日に当てると色が褪せちゃうから、この時だけうちの子分に四×五で複写させたんだ。だから写真全集なんかを作る時にこの時の作品を使えるんだよ。ほかの個展の時は売れたら売りっぱなしだから、記録なんてない。また記録するのもイヤだしね。
『空景・近景』オリジナル(モノクロ写真に彩色)
平成三年(一九九一年)
───当時の感覚ですが高かったです(笑)。
荒木 いくらだった?。
───確か七万円です。
荒木 今だと七十万くらいだよ。この時期の作品は香港の美術館が欲しがるよね。
───ちょっと間をおいて荒木さんの個展に行ったら、手が届きにくい値段になってました(笑)。
荒木 今ギャラリーとかでの値段は大変なことになってるみたいよ。だって自費出版した『センチメンタルな旅』なんて、神田の古本屋で百万だぜ。こっちは関係ないんだから(笑)。中国はでっかい箱を作るのが好きだろ。香港で美術館建てたりしてるんだけど、入れるモノがないんだよね。俺のところにも来るんだけど、俺の写真集も全部集めたいって言っててね。でも初版で全部集めるのは大変なんだ。五百冊くらいあるからキュレターが悩んでるよ。
───日を当てないようにしてきたので、あまり褪色してないと思うんですが。
荒木 してない。これは元々こういう色だった。
───『空景・近景』の展覧会の時は、写真誌「déjà-vu」の編集長だった飯沢耕太郎さんが作品を大人買いされてて、いいなぁと思いました(笑)。
荒木 ああそうなの。じゃああいつは持ってるのかぁ。俺には言わないけどね(笑)。
───あの時の展覧会では、首をくくった荒木さんのオブジェも売っていて、それも欲しかった(笑)。洗濯板を使ったような作品です。
『荒木経惟写真全集16 エロトス』
平凡社刊 より
荒木 あれは洗濯板じゃないんだ。陽子が使っていたパン切り台だよ。それにペインティングしたんだ。ロンドンの展覧会であの手の作品を出してくれって言われて作ったけど、ああいう作品は反応がいいんだな。
■海外での荒木経惟評価について■
───日本ではいまひとつ浸透してないようですが、荒木さんの海外での評価はすさまじいです。
荒木 この間、たまたまテレビでテレビ東京の「YOUは何しに日本へ?」ってのを見たんだ。ブラジル人の青年かなんかが出てきて、その子はロンドンの写真学校に行ってるらしいんだ。その学校ではアタシはレジェンドなんだって。アタシは向こうで古典になってるんだな(笑)。その子は荒木の写真を見に日本に来たんだって言ってた。最初のインタビューで、ファッション・フォトを勉強して、ファッション・カメラマンになるつもりだって言ってたんだけど、日本でいろんなところに行って写真撮ったあとのインタビューでは、「もうファッション・フォトはやめた、荒木になる」って言ってたよ。向こうでの写真家の仕事は、ファッション系しかないんだよ。
───でも荒木さん的な道は険しいなぁ。荒木さんだからできたんであって、他の人はやめた方がいいかもしれない(笑)。
荒木 うん、食えないしね(笑)。さっきの作品、一枚写真撮らせてよ。持って抱えて。その角度でいい。ハィッ(写真を撮る)。こんなところでご対面するとはな。やっぱ美術的な才能があるんだな、困っちゃうよ(笑)。今ちょうど『色地獄』というタイトルで、モノクロの緊縛写真にペインティングした作品なんかを、アムステルダムの美術館で展示してますよ。モノクロの写真に色を付けた作品見た外人さんたちが、これはなんだ、何者なんだって言うわけ(笑)。『空景・近景』の時代は初期で案外ちゃんと色を塗っているわけだけど、今はアクションペインティングだからね。
───『空景・近景』の時代はちょっと落ち込んでいらしたんでしょうか。
荒木 落ち込みなんてないね。でもね、辛いところなんだ。写真屋さんていうのは、ものすごく悲しみに付き合わなきゃならない。それから逃れようとするのはダメなんだ。自分で写真家って称しちゃったから、自分のことから逃げちゃダメなんだ。
───お棺の中で眠る陽子さんの写真などを収録した『センチメンタルな旅・冬の旅』(平成四年[一九九二年]、新潮社刊)をお出しになった時に、そうとう激しく篠山紀信さんとやり合いましたね。荒木さんと篠山さんのお考えがわかる貴重な対談でした。篠山さんは篠山さんで、愛妻家でいらっしゃるのかもしれません。
荒木 シノヤマが死んだ後、南沙織の写真がいっぱい出てくるといいんだけどな(笑)。
───陽子さんは得難い奥様でした。そもそも普通の奥さんは被写体になってくれないでしょう(笑)。
『荒木経惟写真全集3 陽子』
平凡社刊 より
荒木 俺には言わなかったけど、陽子は「愛人にしておけばよかった、結婚する人じゃない」って周りの人に言ってたみたいよ(笑)。アタシが彼女の写真を選ぶって言ったら、これっていう写真があるんだけどね。『センチメンタルな旅』に入ってる、船の中で丸まってる陽子の写真は有名になっちゃったけど、あれじゃなくてその後の、少し生活が入った写真にいいのがあるんだ。これが一番だぞとは言わないけど、写真を見る目があるヤツはわかるだろうな。やっぱり一人だっていうのが写ってないとね。アタシはそういうのを撮るのが好きなんだろうな。いろんな状況があるけど、一人だってのは切ないよね。
今雑誌「ダ・ヴィンチ」で連載してる「アラーキーの裸の顔」シリーズが二百枚を越えたのよ。毎月連載だから、十年以上だよ。すごいよな。その写真の展覧会を、四月くらいに表参道ヒルズでやるんだ。ああいうのを見ると、写真ってこういうものだってわかるヤツがいるんじゃないかな。最初に撮ったのが北野武で、じゃあ最後もタケシでいこうかっていうことでこの前また撮ったんだ。最高の顔になったと思うよ。
タケシの他にもイッセー三宅とか江夏豊とかの顔を撮ったんだけど、有名人ばかりじゃないの。外国で展覧会やった時に、紡績工場とかに行って、そこの職工とかの写真を撮った。またいい顔してるんだ。いい顔は撮る。職工とか友達とか、たまたま出会った人の顔なんかを有名人と同格で並べるんだ。その人の一番いいところを、本人も気づいていないようなところを引きだして撮ってるからいい写真なんだ。俺はいい写真家なんだってことが、バレちゃうんじゃないかって思ってるんだけどね(笑)。だから俺はすごく優しい写真家なんだよ。横顔で耳が入ってると、鼓膜まで撮っちゃうんだから(笑)
■「私写真」について■
───荒木さんは「写真は私小説だ」、「私写真だ」ということを盛んにおっしゃっています。それは完全に根づいたというか、多くの人から支持されるようになったと思います。だって世界中のかなりの人が、荒木さんの奥さんがどういう顔をしていた方で、どういう猫を飼っていたのか知っているわけでしょう(笑)。そんなこと普通はあり得ない。写真の持っている根源的な力を引き出されたと思います。
荒木 チロちゃんも有名になっちゃったもんなぁ。いろんな所に呼ばれて行ったりするんだけど、そこで会う人がチロちゃんのことなんかをよく知ってるんだよな。だからなかなか大変なんですよ。有名人で(笑)。
『チロ愛死』
河出書房新社 平成二十二年(二〇一〇年)四月十日刊 より
───荒木さんの方法というか写真は、最初はとても勇気がいったと思います。でも正しかったんですね。意地を通すのは大変だったと思いますが。
荒木 いや、昔から流れに乗って、流れていくだけだから。だから俺はローリング・ストーンじゃなくて流石なんだ。〝さすが〟っていう意味の流石だよ(笑)。
───ホントに写真がお好きですね。
荒木 写真が好き過ぎなんだろうな。写真のことについては、嫌いなことはなにもないよ。体力的なことっていうとカッコ悪いけど、体力的に衰えていくじゃない。そうするといろんなことを整理したくなるわけよ。でも雑の部分を整理しちゃったらつまらない。
今共同通信で、「アラーキーのニッポン」といういい加減なタイトルでルポルタージュみたいなことをしてるのよ。和食ブームで外人が来日して、普通の家庭で和食の作り方を教わるとかさ、そういうのも撮るんだ。そういうのを消していくとダメなんだ。
昨日は成人式だっただろ。寒いから家にいたけど、ウズウズしてたんだ。成人式は前に写真撮りに行ったことがあるから、まあいいかって思っちゃったけど、ああいうのは面白いね。そういう風俗とか風習と付き合ってないと、写真家はダメなんだ。
『荒木経惟 東京物語』
平凡社 平成元年(一九八九年)四月二十九日刊 より
───荒木さんは何度か街でお見かけしたことがあります。また目立つ服装をされているからすぐわかる(笑)。あるパーティで、薬玉を割っておられるところも拝見しました。
荒木 この間、新潟市美術館で「往生写集─愛の旅」をやる時に、開場式でテープカットをやらされたよ。『写狂老人日記 嘘』にその時の写真が入ってるけどね。この写真集には、このシーン撮っておこうって思った写真がいっぱい入ってるの。撮った写真を捨てないんだね。記念写真っぽいんだけど、それが面白いんだ。
■時代を写す/時代が写るということ■
───平成元年(昭和六十四年[一九八九年])に写真集『写真論』(河出書房新社)をお出しになって、その後しばらくして、もう〝論〟なんて付けちゃダメなんだ、写真に意味なんてないんだというところに行かれましたよね。
荒木 『写真論』の時は、写真のフレーミングとかトーンにこだわったんだけど、いい写真が多いんだよ(笑)。でも今はそういうこだわりはあんまりないね。とにかく量って感じになってる。
───『写真論』は昭和天皇の崩御の年に出た写真集ですが、最後の方にテレビに映った昭和天皇の写真があります。この写真は本当にすごいと思った。こういう写真を撮って、なおかつ写真集に入れられる写真家は荒木さんだけです。当時、アサヒグラフだったと思いますが、篠山紀信さんが246沿いのビルの上にカメラを何台も設置して、昭和天皇の轜車を俯瞰で撮影したパノラマ写真が掲載されました。迫力がありましたが、僕らが見た昭和の最後は荒木さんの写真です。僕の中での昭和最後のイメージは、荒木さんの昭和天皇の写真と共にあります。ブラウン管の中の昭和天皇です。
『写真論』
河出書房新社 平成元年(一九八九年)八月三十一日刊 より
荒木 それは嬉しいな(笑)。
───でも『写真論』の時代と比べると、やっぱり荒木さんの写真は変わりましたね。
荒木 ホントにへたくそにしちゃったでしょ。ハチャメチャに撮らなくちゃダメなんだ。『写真論』は上手すぎるよ(笑)。写真は悟っちゃダメなんだ。今の女の子たちは、スイーツとかいって、お菓子の写真とかなんでも撮るだろ。ああいう気持ちで構図とか光の具合とかあんまり気にしないで、まず撮っちゃうっていうんでいいんだよ。
───荒木さんは写真に見えてくるようなところがあります。写真は裏が白いでしょう。ひっくり返したら秘密があるのかと思ったら白い。全部表に出て表現されてしまってる感じです。写真を見ていても、文章を読んでもそう感じます。それは職業病かもしれませんし、そういう資質があったから写真家として大成されたのかもしれません。荒木さんは写真そのものって感じがします。
荒木 神に見えないのかぁ、紙、ペーパーか(笑)。
───写真家志望の人たちにとっては御真影かもしれませんよ(笑)。だから後二十年くらいは君臨しないと。文化勲章とかのお話はないんですか。
荒木 来るわけないだろ、緊縛写真とか撮ってるんだから(笑)。でもオーストリアが科学芸術勲章をくれたのは、あそこはアカデミーが決めるからさ。緊縛写真なんかも撮ってるっていうのを含めて評価してくれたんだ。
『荒木経惟写真全集14 猥褻写真 墨汁奇譚』
平凡社刊 より
───だけど『写真時代』の頃の猥褻と今の猥褻を比べたら、猥褻の定義が変わっているでしょう。毛を写しちゃダメだって言ってみたり、毛まではいいって言ってみたり(笑)。
荒木 うちら情けないよなぁ、毛を出しただけで呼ばれてたんだから。昔は毛はダメだから、じゃあ剃ろうかってなったわけよ。で、俺は下町っ子で「書道家」だから、そこにまた毛を描いたりするんだ。そしたら猥褻じゃなくて、今度はおちょくってるって言って怒られてさ(笑)。でも向こうも仕事だから気遣いもしてくれたよ。
本庁に行くとマスコミが来て大変だから、浅草署で取り調べようって言ってくれるんだ。でも取り調べは長いわけよ。昼間は飯食わせに行かせてくれるんだけど、「何食ってきたの」って聞くから、「そりゃカツ丼でしょう」って答えるわな。そうすると「上カツ丼だろ。俺たちは並みだけどね」とか言ってくれる。そういうふうに仲良しになるわけ。取り調べが終わった時に、最後に刑事に「ホントは荒木さんはいい人なんだなぁ」とか言われたりしてさ(笑)。
で、警察の取り調べが終わると地検に書類送検されるの。取り調べは検事と書記がやるんだけど、その時の書記が今でいうイケメンだったんだ。取り調べが済むと罰金刑か懲役がどっちか選ぶわけだけど、懲役だと一日百円ちょっとっていう計算だから、一年か二年は入んなきゃならない。こっちは百万円くらい持って行ってるから、罰金刑ってことで三十万くらい払うことになるわけよ。地検のすぐ隣に払う場所があるんだけど、そこに紫の風呂敷に包んだ調書を持って書記が付いてきてくれるんだ。そのイケメンの書記が、後ろから「やめないでくださいね」って囁くわけ(笑)。いいだろ。俺はそいつに会いたくてしょうがないんだ。名前を聞いときゃよかった。今だったら刑事ドラマに出てくるようなイケメンだったね。
あの頃に比べれば今の写真はおとなしいかなぁ。でもまだ飽きずにやってますよ。週刊大衆で「人妻エロス」とか、素人の奥さんのヌードとか撮ってる。「正月だから明(開)けましておめでとう」やろうって言って、ちゃんと立派なのを近づいていって撮ってる。まだやってるんだな(笑)。
(2015/01/14 後編に続く)
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