「詩人と呼ばれる人たちに憧れている。こんなに憧れているにもかかわらず、僕は生まれてこのかた「詩人」にお会いできた試しがない。・・・いつか誰かが、詩人たちの胸ビレ的何かを見つけてくれるその日まで、僕は書き続けることにする」
辻原登奨励小説賞受賞の若き新鋭作家による、鮮烈なショートショート小説連作!。
by 小松剛生
消し忘れたU
正巳はUの字を描くのが苦手だった。
杭のように、曲げた棒の先っちょに横線を引くとVのように見えてしまう。かといって杭をつけないでただ丸い部分のみを描くとその丸みに偏りができてしまって、どうしても納得のいく収まりをしてくれなかった。
だから正巳は木曜日の英会話教室が本当に憂鬱だった。
なぜ自分は英語をやらなければいけないのか、と親に訊いてみたところ「そうだねぇ、なんでだろうねぇ」と母のほうが首を傾げた。
「ねえお父ちゃん、なんでだろうね」
「隣のよし坊も英会話教室へ行くからじゃなかったっけな」と新聞紙を開きかけた父が答える。さんまの開きの焦げた音とテレビスピーカから流れる野球中継のそれが食卓に響いていた。
今日もヤクルトは負けていた。
「それはきっかけでしょ。正巳はなんで英会話教室へ行かなくちゃいけないのかっていうことを訊いてんだから」
社会記事欄を眺めながら父は「今の時代に必要だからだろ」と言って、もう興味をなくしたようだった。大人は駄目だな、と思い、それ以上尋ねることを正巳はやめた。
授業の席は自由で、それも憂鬱になる理由のひとつだった。
「隣に座ろう」と声をかけるべき相手は正巳にはいない。
先生は「アナタが決めることたいせつ」と言っていたけれど、結局何かに責められるようにして正巳は窓際の、誰にも迷惑のかからなさそうな端っこの席を選んだ。トイレに行きたい子がいてもここであればお尻をずらさなくても済むからだ。
先生というのはボブという太った黒人だった。
いつも気持ち悪い笑みを浮かべていた。
ボブはめったに怒ることをしなかった。正巳が知る限り、ボブが悲しい表情をしたのは一度だけ、加奈子が三週連続で教室を休んだときだった。
加奈子は熱心な生徒のうちの一人で、学校にいても英会話教室のことばかり話していた。話をするときは大抵が「ユーノウ?」とお伺いを立ててくるし、ときどきこっちがわからないと英語だらけの加奈子の言葉に降参すると、掌を天井に向けて呆れた顔を投げかけてくる。
正巳は陰で彼女が「鼻にかけた口調で生意気なことしか言わない」女の子と叩かれているのを知っていた。だがそれは間違いだ、と正巳自身は思っていた。加奈子は「生意気なことしか言わない」のではなく「生意気なことしか言えない」ように正巳には思えた。
給食のときのことだ。
たまたま一緒に給仕当番になったとき、重い寸胴を二人で運ぶことになった。台車には容器やら牛乳パックのかごやらでもう一杯だったのだ。
「レディファーストなんだからあなた一人でもって」と加奈子は言った。
「そんなのずるいよ」
加奈子はいつものように腰に手を当て、鼻息を強く吹いてみせた。
「何言ってんの。女の子にこんな重いものを持たせてはいけないの、それが今のジョーシキっていうやつなのよ」
「でも先生は皆で協力して運びなさいって言ったよ」
「あなた先生の言うことしか聞かないの?」
そう言われると正巳は言葉に詰まった。そういう加奈子だってボブの言う事しか聞かないじゃないか、と返すのはなぜか躊躇われた。
仕方ないので細長い廊下を、ときどき休憩をはさみながら時間をかけて教室へと向かうことになった。
途中まで運んだとき、重さで手には赤い紐のような跡がついた。
「手伝ってくれよ」
「駄目なの」
加奈子は頑なに手を貸す事を断り続けた。その唇を噛み締めた表情は、仕事を押し付けられているにもかかわらず同情してしまいそうだった。目元は薄く光っていた。
――たぶん、加奈子はあのときあーするしか他に仕方なかったんだ。
そう思ってしまう自分がいることに正巳は驚いたりもした。
三週間ぶりに英会話教室の講義中に顔を出した加奈子に、ボブはとびきりの笑顔を送った。
「ダイジョウブですか」
顔を赤くして加奈子は小さく「イエース」と呟いた。
誰も加奈子の隣には座りたがらなかった。彼女が座ろうか座るまいか決めかねてちょっと立ち止まったりすると近くの席の子たちは慌てて互いの身をすり寄せた。加奈子の座る場所はそのようにしてどんどん失われていき、最終的に正巳の横へとやってきた。
「いいかしら」
エクスキューズミー、とは言わなかった。正巳は黙って広げていたノートやら鉛筆やらを端に寄せて場所を開けてやった。
ボブが授業を再開させた。今日は自分の家族について英語で紹介するという内容だった。
まずはボブが自分の家族について話した。もちろん英語でだ。かろうじて正巳が聞き取れたのはグランパダ、という祖父のことを指す単語だけだった。
それが終わると隣同士でお互いの家族について話し合ってみる時間が設けられた。自然と正巳は加奈子と一緒にやることになる。
「僕が最初にやるよ」
さっさと終わらせたかった正巳はわざと「アイ、ハバ ファミリー」とだけ言った。彼女は次の言葉を待っていた。正巳は次の言葉を言う気はなかった。
風の音をクヌギの葉が揺れることで伝えてくる五月だった。
加奈子は膨れっ面をしながら、入ってきたときと同じくらい小さな声で「サンキュー」と言ったかと思うと、わっと泣き出してしまった。
教室の皆が正巳たちを見た。ボブが太った身体を揺すりながらこっちへやってきた。
ボブはじっと正巳を見て、それから加奈子を見た。そして彼女を誰にも聴こえないくらいの小さな声で、正巳にはそれがかろうじて聴こえた、彼女を読んだ。
「カナコ、カナコ」
ボブはあるタイミングでそれを中断して、会話を止めてしまっている皆に「ノープロブレム」と呼びかけた。
カナコ、カナコ、と鳥をあやすかのようにボブが加奈子を呼び続けている。
よし坊よりもボブの家族よりも、おそらく今の加奈子は遠いところに行ってしまったのだろう、となんとなく正巳は思う。彼女は今確かに恥ずかしいと思っているはずで、なぜ彼女をそっとしておかないのだろうと正巳は思った。寸胴を重そうに抱える正巳をただ眺めるだけの、加奈子の気持ちがなんとなくわかった気がした。
カナコ、カナコ、と大人の声がした。
教室に通うようになってから三ヶ月が過ぎていた。
正巳はUの字を描くことが苦手という事実を、その頃にはすっかり忘れていた。
おわり
ポニーさんのひづめ
ひづめ。
ポニーさんは自分の履く靴のことをそう呼んでいた。
「これ一足でどこまでも行ければいいのに」
ひづめを買い換えるたびにそう言ってため息を吐くポニーさんは、嬉しいのか悲しいのかよくわからない表情をしてみせた。
わからないので聞いてみることにする。
「靴を買えたことが嬉しいの? 古い靴を捨てることが悲しいの?」
「どっちも、かな」
重そうな靴箱から取り出してみせた新しいひづめは、前にも増して丈夫そうな代物だった。
薄茶色の革はほどよく堅そうで、外側は赤ん坊の頬みたいにきれいな丸いカーブを描いていたし、底は厚かった。
「いつか僕は一生履きこなせるようなひづめが欲しいんだ。僕と一緒にどこまでもってな具合にね」
どこまでも。
ポニーさんはそんな、自分とはかけ離れた言葉たちが好きだった。
いつか。
ここではない、どこか。
どこか遠く。
果てまでも。
「遠ければ遠いほど愛しさは増すんだよ。距離はロマンだ」
いつも自信のない顔をしているわりにはときどき強気な言葉を吐くのもポニーさんの特徴だ。
「ふーん」
「距離はロマンだ」
もう一度、力強く言うとさっそくポニーさんは汚れてもいない新品のひづめを靴磨き用の布で磨きはじめるのだった。
ポニーさんは「戸籍上はアタシの父親」ということになっている。
いや、こんなまどろっこしい言い方をすると誤解を生んでしまいそうでアレなのだが、特に複雑な関係ではなく(義父、とか?)まぎれもなくアタシの父親である。
ついでに言うとポニーさん本人はアタシが「ポニーさん」と影でこっそり呼んでいることを知らない。
ポニーさんだけでなく、ポニーさんを「ポニーさん」と呼んでいることを知っているのはこの世界でアタシ一人だけである。
そのことに関しては特に上げるべき理由などないけれど、あえて言うならばその「世界でアタシ一人だけ」というものをアタシも持ちたかったのかもしれない。
わからない。
けれど、とりあえずそういうことにしておく。
こんな漠然とした言葉たちを書きたててしまうのも、ポニーさんの影響をひそかに受けているからなのかもしれない。
ポニーさんは家で一番背が高い。
もっとも、「家で」とは言ってもアタシと母とポニーさんの三人しかいないので、それはそれは小規模な一番ではあるが一番であることに変わりはない。
当然高いところの仕事はポニーさんの領域となる。
あなた、ちょっと換気扇の掃除を。
「はいよ」
お父さん、そこの水筒取ってくれない?
「はいよ」
あなた。
「はいよ」
お父さん。
「はいよ」
ちょっと誇らしげに聞かれる「はいよ」の声をもう何度も耳にした。
耳にしすぎてタコができるほどだ、と言ったらポニーさんは「ああ惜しいことした」とぼさぼさの頭を抱えた。
「なんで」
「だってもし僕が「はいよ」の数を数えていたら、果たして何回目の返事で耳ダコとやらができるか、わかったかもしれないじゃないか」
ああ。
今度はアタシがため息を吐く番だった。
「どうしたい」
「なんでもない」
アタシが父のことをポニーさんと呼ぶようになったのは高校を卒業して(それは奇跡のようなものだった)、大学に上がり(それは奇跡そのものだった)、いよいよ社会人一歩手前の段階にまで近づいた頃だった。
ある日突然に何の前触れもなく、アタシは気付いた。
アタシはポニーさんのことを何も知らない。
アタシとしてみれば人生のほとんどの時間をあの人と一緒に過ごしているような気分になっていたが、ポニーさんからすればそれはほんの短いひとときであったに違いないのだ。
ポニーさん風に言うならばひづめひとつかふたつ分ほどの時間しか一緒に過ごしていない。
世界は広い。
果てしなく。
二〇歳を超えてようやくその事実に気付いたアタシは思わず醤油の小瓶を取り溢してしまった。
「なにやってるの」
母の呆れた声とテーブルクロスに拡がる醤油の染み、そして世界の広さにただただ口をあんぐりと開けていることしかできなかったアタシを、ポニーさんは無表情に眺めていた。
ポニーさんが訊いた。
「どうしたい」
アタシは答えた。
「世界は広い」
「うむ」
そのとおりだ、とポニーさんはうなずいた。
そのとおりだ、とでも言うかのようにテレビに映されていたヤクルトの小川監督もベンチ内でうなずいた。うちは一家揃ってヤクルトファンなのだ。
「世界は広い、どこまでも」
そして何事もなかったかのように蓮根炒めをつまもうとして。
「布巾くらい持ってきてよ!」
母に怒られた。
――これ一足でどこまでも。
その夢のような一言に関する思い出を訊かされたのは、それから幾日も経たないある晩のことだった。
ポニーさんとアタシは二人だけでテーブルの上のほうじ茶を一緒にすすっていた。
なんでそんな事になったのか、は覚えていない。
二人ともすごく空腹だったのか台風が襲ってきたせいで夜眠れなくなったの
か、もしくはその両方か。
たぶん、そんなところだろう。
わかっているのはひとつ。
台風にしろ、空腹にしろ、それらはすでに過ぎ去った後であり、今の状況はすでに「その後」のことだということだった。
二人は台風の、もしくは空腹の延長線上にいた。
テーブルの上にあったかもしれない皿はきれいさっぱり片づけられていた。
せいぜいあったのはほうじ茶の入った湯呑みがふたつ程度で、おまけに外はとても静かだった。
夜中の、何らかの延長線上に座りながらアタシ達は二人お茶を飲んでいた。
それが事実だった。
気に入ったからもう一度言う。
それが事実だった。
「事実と真実の違いってなに」
なんとなくアタシはポニーさんに訊いてみた。
勘違いされては困るけど、別にいつもそんな会話をしているわけではない。
真夜中という時間帯は誰もが詩人になることを許される時間帯ということで、アタシ自身もその慣習に乗っ取ったまでだ。
「テーブルの上に置いてあるか、冷蔵庫の中に入れてあるかぐらいの違いじゃないかな」
「そんなものなのかな」
「だって真実っていうとちょっとめんどくさい響きがあるじゃないか。ちょうど冷蔵庫に物を取りにいくことくらいに」
アタシはテーブルの上の事実を見つめた。
ほうじ茶がふたつ。
詩人が二人もいるのになんとも寂しい。
「今夜の真実は何かしら」
「確かまだ抹茶アイスが残ってたはずだ」
「素敵ね」
「素敵だ」
しばらくは二人とも無言でアイスをつついていた。
ねぇ。
なに?
「「どこまでも」ってよく言うけどさ」
その「どこ」はどこにあるの?
抹茶アイスの冷たさが夜の湿気に似合っているような気がした。
居間のテレビは消えていて、暗い画面にはぼんやりと二人の影が映っていた。
「うーん」
磯子、かな。
イソコ?
そう、磯子。
ポニーさんは電話機の横にあるメモ帳を一枚破って、綴使りを書いてくれた。
「これって日本だよね」
「そうだ、根岸線にある駅の名前だね」
「近いね」
なんでここが「どこ」になるの。
「昔ね、僕がまだ学生だった頃の話さ。ちょうど今の君くらいの歳だった。ある日の帰りの電車で偶然、好きだった女の子と乗り合わせたんだ」
その人が今の母さん?
もちろんちがうよ、とポニーさんは首を振る。
「浮気者」とアタシがなじると、ポニーさんは何も言わずに微笑んでみせた。
この浮気者め。
「アイロンのかけ方すら知らない当時の僕からすれば彼女はまさに高嶺の花だった。他愛もないおしゃべりができるだけで僕は満足だった。すると彼女が言ったんだ。路線図を眺めながらね」
――磯子駅、だって。行ってみたいね。
――なんで。
――海が好きなのよ、アタシ。
――へぇ、この駅は海が近いんだね。
――知らないけどね。
でもいかにも海が近そうな名前じゃない。
「磯子」なんて。
ぜったい近いよ。磯だよ、磯の子だよ。
「そう言って笑う彼女が可愛くて僕は思ったんだ。いつかきっと彼女と付き合って、デートするときは磯子まで行こうって。そのときが来るまで僕は絶対その場所には行かないことに決めたんだ」
「それでデートはできたの?」
一応、聞いておくことにした。
「いや」
やっぱり。
「たぶん、僕は磯子に行くことはないだろうね」
とても遠い場所だよ、とポニーさんは続けた。
「ふーん」
ロマンだね、とアタシは言った。
ロマンだよ、と答えるポニーさん。
パジャマ姿で、胸のあたりに何かこぼしたのだろう黄色い染みがついている。
抹茶アイスを一口食べる。
冷たい。
真実はいつも冷たい。
*
あれからアタシは大学を無事に卒業するという生涯三度目の奇跡を演じることに成功し、東京で一人暮らしすることとなった。
ずいぶんな奇跡だね、とポニーさんは笑ってくれた。
夜。
仕事が終わってくたくたになって帰宅したアタシは、シャワーを浴びた後になって冷蔵庫の中に調味料と使いかけの固形デミグラスソース以外何もないことに気づいた。
いや、ほんとうは気づいていた。
気づいていたけどロッカールームで着替えているうちに忘れることにしたのだ。
アタシの脳はこんなときだけは優秀で、すぐに忘れることができた。
自分の優秀さが憎たらしい。
おかげでこのあり様だ。
「ええい、仕方ない」
お化粧もとっくに落としてしまったけれど、近所のスーパーまでは片道5分、往復で10分ほど。
たいしたロマンじゃないはずだ。
なんとか無事に買い出しを終えた帰り道、隣に住むみっちゃんと会った。
「今日のごはん、なに」
アタシと同じ、社会人一年目の彼女にはえらく懐かれてしまっている。
「オムハヤシ、にしようと思ったけど鯖寿司」
「オムハヤシ?」
「いや、鯖寿司に」
「オムハヤシ、食べたい」
「作る?」
「うん」
オムハヤシの延長線上には鯖寿司があるという事実を彼女にいくら説いてもおそらく無駄だろう。
スーパーのビニール袋を二人でひとつずつ持ち、近道である駐車場を渡ってアタシ達は部屋に帰った。
おじゃましまーす、とアタシの部屋にあがりこんだみっちゃんの靴が、玄関先に転がっていた。
「みっちゃん、ひづめはちゃんと揃えないと」
「ひづめ?」
ポニーさんの知らないロマンが。
ここにあった。
おわり
ホウレンソウ311
休日にフライパンを買った。
人生においてフライパンを買う日というのは合計すると果たして何日くらいになるのだろうか。そんなにない気がする。彼は28歳になったばかりだから1万日以上は生きている計算になる。一人暮らしを始めたのが21歳の頃。引っ越しは2回経験している。今までは部屋を替えるタイミングでフライパンも新調していたはずだから、今回は3個めということになるだろうか。日にちでいうと彼の人生においてフライパンを買う日というのはまだ3日しか訪れていないわけだ。
――あの日から、3年が経ちました。
テレビではちょうど3年前に起きた東日本大震災の追悼番組が放送されていた。画面の中にいるニュースキャスターやらコメンテーターらがぴっちりとネクタイを締めて彼を見ていた。3という数字にやたら縁のある日だな、と彼は思い、テレビを消した。
電話が鳴った。
「もしもし」
姉からだった。
「なに」
「あのね、ホウレンソウがぜんぜん足らないって怒られたの」
姉の話はいつも突然始まる。
「ホウレンソウ?」
「報告、連絡、相談ってやつ。上司にさ、お前はぜんぜんホウレンソウができていないって怒られた」
小さな出版社で働いている姉はどこか不思議な感覚をもつ人だった。
昔、友人に手紙を送る機会があり、編集業も経験のある姉に良い文章を書くにはどうしたらよいか、相談してみたことがある。
「まず脇を締めることだよ」
「わき?」
「そう、良いパンチを打つためには脇を締めなくちゃいけない。相手との最短距離で打たないといけない。文章もそうだし、料理もそう。脇を締めてそれをするべきだよ」
うーん。
――わかるような、わからないような。
それが姉である。
「上司がね。なんでお前はそれをしないんだ、そんなことできて当たり前だって言うの。アタシだってしないといけないことはわかってる。でもね、誰かを前にすると言わなくてはいけないことが突然口から出てこなくなるの。自分でも不思議だったから、アタシも訊いてみたの。なんでできないと思いますかって。そしたら「自分で考えろ」だって」
「そっか」
「怒られているうちに腹が立ってきたの。世の中でホウレンソウというシステムが横行していることに。それにアタシばかり怒られて悔しいじゃない?」
それは。
それは怒りの矛先の向け方、というより立て方を間違っているんじゃないかなと思わないでもなかったが、彼はそれを口に出すことはしなかった。
「それで世のホウレンソウに怒りをぶつけるために、ほうれん草を焼くことにしたの、バターで」
「バターで?」
「そう、ついでにしめじも入れるけど」
それは炒め物を作っているだけではないのか、とは言わないでおく。
「姉さん、脇を締めなくちゃだめだよ」
「その通り、脇を締めなくちゃいけない」
ひととおりの愚痴を吐いて満足したらしい姉の「じゃあまた」という言葉を最後に電話は切れた。
彼は考えた。
これから何をしようか。自分も被災地の方々のために募金でもしようか。それともどこかの神社でお参りでもしてこようか。しばらく考えたのち、靴を履いた。
ほうれん草を買ってこよう、と彼は思った。
姉を苦しめたホウレンソウシステムに自分も一矢報いるため、新しいフライパンでほうれん草を焼くのだ。彼は誰に報告するでもなく、ほうれん草の炒め物を作るだろう。脇を締め、換気扇を回しながらひとり、フライパンに向き合うことだろう。
そんな彼の行為を。
僕は優しさと呼びたい。
おわり
(第03回 了)
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* 『僕が詩人になれない108の理由あるいは僕が東京ヤクルトスワローズファンになったわけ』は毎月24日に更新されます。
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■