「詩人と呼ばれる人たちに憧れている。こんなに憧れているにもかかわらず、僕は生まれてこのかた「詩人」にお会いできた試しがない。・・・いつか誰かが、詩人たちの胸ビレ的何かを見つけてくれるその日まで、僕は書き続けることにする」
辻原登奨励小説賞受賞の若き新鋭作家による、鮮烈なショートショート小説連作!。
by 小松剛生
いつかハリケーンが来るまで
今日からこの部屋をキッチンではなく簡易食堂、と呼ぶことにする。
(今日から?)
いや、もうずっと前からそこは簡易食堂だったような気がする。
食堂では毎日、ささやかな事件が起きている。
あまりにもささやかすぎて気付かれないことすらあるが、しかし確実にそれは起きている。
そのささやかさときたらそれはそれはささやかであり、ときどき事件そのものをささやか、と呼んだりもする。
――まったくあの日のささやかときたら。
――午後に起きたささやかのことなんだけど。
――さてはて、本日のささやかはどこで。
そんな風にして食堂はささやかな営業を繰り返している。
ラストオーダーの時間はとくに決められていない。
排水溝にフタが被せられればそれが閉店の合図となり、そのあとにどれだけ洗い物が増えようとその日はそれでおしまい。
照明が落とされる。
食堂にメニューはない。
どんな注文にも応えますといった、某アイドルグループの調理するビストロなんたらでもない。
ビーフストロガノフを作ってくれと言われてもそれは無理な話になる。
だいたいビーフストロガノフ、なんて名前がよくない。
そこにはいかにも夢や希望が詰まっているようなニュアンスがある。
鍋の中に夢やら希望やらを入れてぐつぐつと煮込んでしまえばビーフストロガノフができるのではないかと、そんな気さえしてくる。
ここにはない。
あるのは悲しみばかりだ。
悲しみのフライパン。
悲しみのマドラー。
悲しみのスプーン。
「ほんとに悲しみばかりね」
彼女は食堂のテーブルに頬杖をついていた。
くたびれたロングスカートに裸足のままでいる。
今なぜここで彼女の容姿を書いたかというと、他に書くべきことがないからだ。
いや、あるにはある。
けどそれらはすべて悲しすぎるから、ここらでバランスをとっておくことにする。
本来であれば頭がカッとするくらい熱いコーヒーを彼女に出したかったけど、残念ながらコーヒー豆がない。
コーヒーマシンもない。
あくまでもここは簡易食堂にすぎない。
インスタントコーヒーの粉(お湯を注げばできるタイプのやつ)はあるが、それでは悲しみを増やすばかりだ。
――リディアっていうアメリカの女流作家が書いてたんだけど。
彼女はそう前置きをしてから言った。
「この世に存在するほとんどの物語は悲しみからできているらしいわ」
「あれ、専攻は英米文学だったっけ」
ううん、情報コミュニケーション学部だけど。
僕は心の中でため息を吐いた。
いつの間にか世の中ではますます研究すべき材料が増えてしまったらしい。
彼女は続けた。
「その言葉が本当なら、この食堂は物語で満ちているってことになるわね」
僕は首をかしげた。
そうだろうか。
果たしてそうだろうか。
3畳ほどのスペース。
一人分にしては大きすぎる冷蔵庫の稼働音がジャズの代わりに流れている。
それだけだ。
「リディアは基本的に長編しか書かなかったけど、一冊だけ彼女の短編集が出版されてるの」
「書かなかった?」
「もう死んでるの」
今度はわざと彼女に見えるように、ため息を吐いた。
「そこに『ハリケーン』っていうタイトルの短編が収録されているの。すでに死んでしまった男に恋をしてしまった女の話」
女は男のコートにブラシをかけ、インク壺を磨いて、象牙の櫛を指でなぞる。
それでも足りずに今度は男の墓の上に家を建てて、毎晩のように湿った地下室で男のそばに寄り添って過ごす。
「それで?」
冷蔵庫の中にプリンがちょうど二つ、残っているのを見つけた。
僕は食器棚から小振りのスプーンを取りだすと、プリンと一緒に彼女の頬杖のすぐそばに置いた。
悲しみばかりではあるけれど、プリンに罪はない。
「ある日、その家にハリケーンが直撃する」
彼女は話しながらプリンカップのふたをめくった。
そして何もかも吹き飛ばしてしまう。
コートも、インク壺も、象牙の櫛も、本当に何もかも。
残ったのは悲しみだけ。
彼女はスプーンでプリンをすくって口に入れた。
僕もそれの真似をした。
閉じられた窓の隙間から夜の冷たい空気が流れてくるのを肌で感じた。
「たぶんね、それはリディアなりの優しさだったんじゃないかってアタシは思うの」
「もうこの世にいない男を好きになってしまった女をハリケーンで吹き飛ばすことが?」
彼女はうなずいた。
すでにプリンカップは空になっていることに気付かずにまだスプーンを口に運んでいた。
「なるほど」
確かに、その話はビーフストロガノフ的ではない。
「ビーフストロガノフ?」
中身のないプリンカップにスプーンを突っ込んで何かをすくう動作をする彼女。
では僕も待っていよう。
いつかこの食堂をハリケーンが吹き飛ばしてくれるその日まで。
吹き飛ばされた跡地にて何も知らない子どもたちがキャッチボールをするその日まで。
そこに悲しみはなく、ホームベース代わりのマンホールがあるはずだ。
三遊間の狭い即席の野球場があるはずだ。
――君はそのスプーンでいったい何をすくったんだろうか。
悲しみではないことを、ここに祈る。
ささやかな祈りだ。
おわり
【参考 及び引用】
『ほとんど記憶のない女』
(リディア・ディヴィス 訳・岸本佐知子 白水社 2005年)
スカートをぶつけた日
疑問を拾う仕事です。
それを聞いた大抵の人はキョトンとした表情をニワさんに向けてくる。
疑問、ですか。
それはなんというか、その、あの疑問ですよね。
――ええ、そうです。
拾うものなんですか。
――拾うべきかと言われればわかりませんが、それを拾うのが私の仕事です。
あの、失礼ですが拾ってどうされるんですか。
――拾ったらこぼれないように特殊なフィルムで包んで、工場に持っていきます。
いえそうではなくて、使い道、といいましょうか。
――ああ、足場材や塗装材の原料だったり、防水シートの代わりなんかにも使われるんです。
疑問が?
――疑問が、です。
そうして向こうの「キョトン」が崩れぬままに会話だけがなし崩し的に終わる度に、まだまだ世間での認知度が低い商売なのだなと実感する。
それなどまだ良い例で、一度などは自称「詩人」につかまってしまった。
都内にある某基督教系大学の改修工事に出向いたときのことだ。
だだっ広い講堂を新鮮に思いながら、丸椅子の疑問にフィルムを貼っているところ「何をされているんですか」と呼びとめられた。
下請け業者の辛いところというか、現場の人間はすべてお客様なので邪険に扱うわけにもいかず、疑問を拾っているんですと素直に告げると「それは素晴らしい」と立ち止まられてしまった。
「やはり、それは誰かがやらなければいけないことなんでしょうか」
「そうらしいですね」
「放っておくと、溜まってしまうものなんでしょう?」
「年数が経つとどうしても。疑問は多すぎても少なすぎてもそこに立ち寄る人間に悪影響ですから、こうして定期的に拾ってやらないと」
詩人はもう一度、素晴らしいと言った。
彼はスーツを着た恰幅の良い紳士で、そのタイミングで私は詩人ですと名乗った。
頭の部分はてっぺんだけが砂漠地帯になっていて、昼の講堂に射し込む陽の光を受けて見事に輝いていた。
「ということは、やはりビルなんか高い建物を建てるには疑問とやらが必要になってくるんですね」
「ええ」
疑問がないとビルは建ちません。
ニワさんの言葉に詩人は惚れ惚れとした目線を向けて、腕組みをしながら満足そうに構内の奥へと消えていった。
何かとんでもない勘違いをさせてしまったんではなかろうか。
――まぁいい。
悪いことをしたような気もするが、変に考え込むのも馬鹿らしい。
考え込んで手が止まると疑問は溜まっていく一方である。
仕事が増えるのはごめんだ。
丸椅子の疑問をハイエースの後部座席に手早く積み終えると、ニワさんは次の現場の図面をめくりながらコンビニで買った鮭おにぎりを齧った。
ニワさんが疑問拾い工の職についてから10年の歳月が流れた。
幸か不幸かその間、工事の受注が止まることなく、おかげでニワさん自身が疑問に立ち止まる暇もなかった。
「疑問がないとビルは建ちません」
それは決して話し上手ではない親方が顧客との会話を断ち切るために使っていた常套文句で、見習いだった頃のニワさんは何度もそれを耳にした。
「蛇口がないと水は出ません」
「疑問がないとビルは建ちません」
いつか。
蛇口と同じように疑問も当たり前になる時代が来るのだろうか。
わからない。
その日、仕事を終えて工場に戻るとFのメンバーである山垣さんと出くわした。
Fは疑問拾い職人たちの中でも腕利きが粒をそろえていることで有名な職人グループで、ニワさんの属している組とは親方の代から交流が深かった。
守谷所長も今でこそ現場には出ないで工場の番人になってはいるが、元を辿ればFのメンバーである。
「よう、お疲れ」
「お疲れ様です」
どちらかというと「つかまった」といった方が正解かもしれない。
「もう今日は終わりか」
「山垣さんは」
「現場が小学校でさ、18時以降は警備の問題とかでやらせてくれねえんだよ」
あと二時間もありゃ終わらせられたんだけどなー、と大して悔しくもなさそうにその太い腕を腰に当てた。
山垣さんの背は小さい。
男と並んでも高いほうとされるニワさんは彼の坊主頭の真ん中にあるつむじを見下ろすことができる。
それがなんともいえずキレイなつむじで、山垣さんのそれを見ていると果たして自分のつむじはあんなに美しく巻かれているだろうかと不安になってしまいそうになる。
ときどき頭を触って確かめる。
うん。
たぶん大丈夫。
「あ」
山垣さんが小さく叫んだ。
「おい、こら」
足元を指さされた。
何かと思えばニワさんのショートソックスがある。
ユニクロで買った、3足で千円もしない安物だ。
見れば山垣さんも全く同じ柄の靴下を履いていた。
「ユニクロですか」
思わず指摘すると、山垣さんは恥ずかしそうに「やめろよー」と頭をぽりぽりと掻いた。
腕こそ太いが、職人たちは意外と繊細なのだ。
なんだかおもしろかったので「ユニクロ、いいですよね」と会話を続けたら「今度からお前はユニクロ禁止だな」と言われてしまった。
残念だ。
山垣さんには見習いの当初からだいぶ助けられてきた。
Fとは守谷所長が大手から引っ張ってきた案件を分け合うほどの懇意の仲で、お互い手が足りないと連絡を受けるとその現場に近い人間が応援に行くのが決まりとなっていた。
中でも「危険作業担当」である山垣さんにはお世話になった。
地上40メートルの足場にて無理な体勢で拾うことを強いられる疑問を見つけたので山垣さんを呼ぶ。
「仕方ねぇなぁ」と嬉しそうに言って、安全帯を足場に引っかけて拾ってきてくれたことがよくあった。
何年も経ったある日、同じFのメンバーである中山さんに聞いてみたことがある。
「山垣さんってほんとに「危険作業担当」なんですか」
「え、そうなの?」
中山さんもキョトンとした顔つきになった。
「え、違うんですか」
「いや、わからないけど」
彼が言うならそうじゃないのかなぁ、と中山さん。
どうやら山垣さんも自称云々の手合いらしい。
当の本人は疑問の詰まった段ボール箱をかつぎながら二人の目の前を汗だくで通り過ぎていく。
狭い工場内は午前中に降った雨のせいで湿っぽく、窓の隅には水滴がいくらか溜まっていた。
九月が終わろうとしていた。
*
記憶の中の母はいつも口を真一文字に結んでいる。
威厳のある人だった。
そこに疑問の余地をはさむひまもなく、「はい」と言われれば「はい」と返事をしていた。
口答えをした憶えはない。
本当に言われるがままに風呂掃除や靴磨き、学校の宿題などをやっていた。
なんとなく、実の母ではあるが彼女には逆らってはいけない雰囲気があったのだ。
ニワさんが逆らわない代わり、といってはおかしいかもしれないが、あの人は子どもの不始末にも愚痴をこぼすことをしなかった。
和室の襖を蹴破ってしまったときも、せっかく作ってくれたお弁当を食べるのを忘れて腐らせてしまったときも、黙々と後片付けをする母のお尻をニワさんはじっと見て育った。
親と子の間でありながら、二人にはそういった不可侵的条約がいつの間にか為されていたのだ。
ニワさんが口答えしない代わりに母も愚痴をこぼさない。
血のつながったという点を考慮すればするほどに清々しく、なにか美しさすら感じる関係だった気もする。
口答えする相手はどちらかというといつも父だった。
都立高校に通っていたある夜、連日のように帰りが遅いことを注意されたことがあった。
明かりの下にある夕食にはまだ手がつけられた形跡がなく、どうやら自分を待っていたらしいことはうかがえた。
なぜ自分の帰りが遅かったのか、ニワさんはよく憶えていない。
どうせ友達と話しこんでしまったとか好きだった人の部活の終わりを待っていたとかいう、くだらない(もちろん当時の自分からすれば大事な)理由だったのだろう。
むしろそれよりも強烈な出来事がその夜に起きた。
和室の畳の上に寝間着姿であぐらをかいていた父は「ちょっとこっちへ来なさい」とニワさんに言った。
目の前に座りなさいという合図だった。
思春期特有の、というべき憂鬱に見舞われていたニワさんは「なに」と玄関先に立ったまま聞いた。
「帰りが遅くなるのなら連絡しなさい」
「どうやって?」
当時は今のように誰しも携帯電話をもつ時代ではなかった。
「いろいろ方法はあるだろう、学校の電話を借りるとか」
ゴニョゴニョとつぶやく父になんだか無性に腹が立ち、ニワさんは履いていた制服のスカートを脱いで父の顔に思いきりぶつけた。
ぱさりと音がして、紺色の制服が畳に落ちた。
父の両眉が真ん中に寄り、顔色は真っ赤になっていた。
「何も知らないくせに」
突き放した言葉はむしろニワさん自身に刺さり、喉の奥から嗚咽が漏れてくるのがわかった。
しゃくり声を聞かれたくなくて、そのままの勢いで下を向きながら急いで二階の自分の部屋に上がった。
上はブラウザ、下はパンツ一枚というお間抜けな格好で。
しばらく部屋で泣いていると、こんこんとドアを叩く音に顔を上げた。
母がいた。
「お父さんに謝りなさい」
ひっぱたかれるかと身を固くしたニワさんにそれだけ言うと、またゆっくりとドアを閉めた。
スカートをぶつけた理由を訊かれなかったことが嬉しかった。
父が亡くなった後になって、母は「あのときねぇ」と口を開いた。
「あなたが年頃の娘だっていうのにパンツ一枚だったから、お父さん怒るに怒れなかったんだって」と教えてくれた。
真一文字の唇がゆるい曲線を描いた。
母の笑った、数少ない思い出のひとつだ。
*
最近、妙に昔のことを思い出す。
それも青春のひとつかふたつ手前にある、どちらかというと一生閉まっておきたい種類のものを、缶ビールに口をつけながらなんとなく思い浮かべてしまう。
コップも用意せず、下着はショーツだけ、上はTシャツを着ただけの無防備この上ない姿でぼーっとするのが、昼間の疲れを忘れさせてくれる一時だ。
点けっぱなしのテレビはシーズン中であれば野球中継のチャンネルに合わせられている。
別に野球好きというわけではないが、自分と同じ年くらいのタレントたちが馬鹿みたいに騒いでいる番組を観るよりかはよほどマシだ、というのが彼女の感想である。
お情け程度の化粧水でぽんぽんと頬を叩く。
自然とプロ野球に詳しくなり、学生時代野球部を貫き通した中山さんなどは嬉しそうに「昨日のヤクルト打線は」などと話題を振ってくる。
ビールをもう一口、冷たい喉越しと心地よい苦味がますますニワさんをぼーっとさせる。
もう一度言う。
無防備なことこの上ない。
テレビスピーカから歓声が湧いた。
すでに野球のシーズンは終盤に差し掛かっていて、中山さんの愛するヤクルトはリーグ最下位の順位がほぼ決定的になっていた。だがどうやら順位だけがプロ野球ファンのこだわりでもないようで、画面の向こうでは山田哲人の日本人右打者におけるシーズン最多安打記録がかかっているらしく、観客はその一打席一打席に注目しているようだ。
――ああ。
ため息が漏れた。
山田は今日の最終打席も凡退に終わり、四打数無安打に終わった。
「なにやってんだか」
誰もいない部屋で放たれた言葉はテレビに向けてだろうか、それとも自分だろうか。
あるいはその両方か。
「なにやってんだか」
今日は文学君からの連絡はなかった。
小説家になるのが夢らしい彼は一昨日、嬉しそうにニワさんのアパートを尋ねてきた。
「すごく良いタイトルが思い浮かんだんですよ」
いかにも世間知らず丸出しのお坊ちゃん、といった笑顔に不思議と嫌な気持ちはしなかった。
いつもそうするように彼を迎え、ほうじ茶を出すと(文学君はお酒が飲めないのだ)柴犬の挿絵が入ったメモ帳を一枚、テーブルの真ん中に置いてみせてくる。
――ポニーさんのひづめ。
それだけ書かれていた。
「どうです、いいでしょう?」
あんまりに彼が嬉しそうに聞いてくるので、ニワさんもよくよく考えもせずに「そうかもね」と答えてしまう。
「そうでしょう」
「うん。で、いったいどんな話なの」
「いえ、それはまだ何も決めてません」
「あのね」
――タイトルだけ先に決めてどうするの。
――それじゃ映画の予告編だけ作るようなものじゃない。
――中身はどこにいったの。
と、口火を切ろうとしたがふと思い直す。
小説に関しては文学君のほうがよほど詳しいはずである。
向こうの世界ではそれが普通なのかもしれない。
「ポニーさんっていうのはたぶん誰かの呼び名なんだろうね」
「ええ、でも世間。僕は世間のことなんてよく知らないけど、世間的にはなかなか呼びにくい名前のような気がするんですよ、ポニーさんって。おそらくは誰かがこっそり呼んでる名前なんじゃないのかなって、そう思うんです」
なんとなく不思議な気分になってくるでしょ、と文学君。
「まぁね」
それが一昨日のことだった。
テレビでは接戦を制したヤクルトの杉浦投手が笑顔でチームメイトとハイタッチを交わしていた。巨人の選手たちがロッカールームへと引き上げる背中が対象的に映されていた。
もうそろそろ監督インタビューが始まる時間だった。
――そういえば。
文学君の過去をほとんど知らないことに気付いた。
彼は彼でいろいろあったに違いない。
父親にスカートをぶつけたくなるような日があったに違いないのだ。
そう考えると、なぜかほんの少しだけ父や母のことを許せそうな気がした。
もっとも。
文学君はスカートを履かないだろうけど。
引き出しから明日着る予定の作業着を取り出す。
靴下はユニクロのやつに決めた。
――山垣さんに見つからないようにしなければ。
あの人の怒る姿もそれはそれで可愛いものだ。
からかうにはちょうどいい相手である。
ポニーさん。
その人もやっぱり疑問を抱えて生きているのだろうか。
なぜこっそりと呼ばれなければならなかったのか。
果たして。
いやいや。
誰にも拾われることのない疑問が彼女を包んでいた。
目を閉じる。
再び目を開けたとき、下はショーツ1枚しか履いていない事実を思い出した。
「なにやってんだか」
その呟きを文学君が訊いていてはくれないだろうかと期待してしまう自分がいることに気付いた。玄関のほうへ目を向けるも当たり前のようにそこは暗がりしかなくて、人の気配はこれっぽっちもなかった。
文学君はまだ「向こう」にいるのかもしれない。
果たして。
いやいや。
おわり
明日、ミラノでは雨が降るらしいけど
その電話機は果たして葡萄になれるのだろうか。
僕は黒電話を指さした。
今ではすっかり珍しくなってしまったそれは表面からしてどこまでも黒光りしていて、覗きこんだ僕の横顔を映した。
ダイヤルの輪はどこかとぼけたように円を描いていた。
「ブドウ?」
「そう、葡萄」
「ブドウってあの、一房と数える葡萄」
「そう。丸くて甘くて、握るとぴゅっと果汁が出てくる。あのブドウ」
彼女は僕に憐れみの込められた視線を投げてよこした。
いや決してそうと決まったわけじゃないけれど、その印象は間違ってはいないような気がした。
彼女は僕の兄の恋人であり、もうすぐ元・恋人になるであろう人だった。
「なぜ電話機がブドウにならなくちゃいけないの」
「もしも、の話さ。もしも電話機が葡萄になりたがっていたとしたら、彼はブドウになることができるだろうか」
〝彼女〟かもしれないよ、と電話機ではないほうの彼女が言った。
「もちろん」と、僕もうなずいた。
二人は今、僕の借りているアパートの一室にいた。
薄青色のカーテンが目立つその部屋は1階にあるためにお世辞にも空調が良いとは言えず、どこか黴臭い匂いがした。
中古の洗濯機に中古の冷蔵庫、ソファベッドと小さな本棚と背の低いほうの収納棚。床に置いたままの小さな液晶テレビ。テレビ台はない。
その収納棚の上に先ほど名指しされた黒電話がちょこんと乗っているのだ。
「彼女かもしれない電話機は、果たして葡萄になれるのだろうか」
「ねえ、いったい何の話」
「世の中には少ないけれど、確かに絶対という事実が存在するっていう話だよ」
僕は住み始めて3年目の部屋を眺めた。そういえばこの部屋に僕が移った時期は、兄と彼女が付き合い始めた頃と一致した。
「そういえばあなた、この部屋のことをミラノって呼んでたね」
恥ずかしい過去の産物を彼女は掘り当てた。
「僕は今日もミラノに帰るよって、しょっちゅうアタシに自慢してたじゃない」
久しぶりの引っ越しで浮かれていた僕は、イタリア的要素がひとつもないこの部屋をミラノと名付けた。
「イタリア北部にある都市のそれとは何の関係もありませんよ」と言い訳をしていたことも思い出した。
思い出して顔が赤くなった。
「なるほどね」
――確かに世の中には絶対という事実が存在するのね。
意図した形ではなかったけれど、僕の言いたいことは伝わってくれたのかもしれない。
「そう、どうあがいても黒電話は葡萄になんかなれないんだ」と、僕。
「そしてここはミラノではない」と、彼女。
梅雨だった。
確か兄はヤクルトスワローズのファンだったけど、ヤクルト対ロッテは二日連続で雨天中止になっていた。日々の楽しみが減ってさぞ嘆いていることだろう。部屋のエアコンが唸り声をあげて、外では誰かが水たまりに足を突っ込んだのか、ぽちゃんという音が遠くで聞こえた。部屋はそれくらいには静かだった。
「それで?」
少しの間の沈黙を破ったのは彼女のほうだった
「その絶対という名の事実がどうしたっていうの」
「兄貴とあんたが別れたら、僕たちの関係性も変わってしまう。それはどうあがいたって変えられない事実だよ。絶対、なんだ」
「どうして」
彼女が僕を見た。
少しこわい。
ときどき、彼女の視線は僕をおびえさせた。
「別に今までどおり遊べばいいじゃない。アタシがあいつと別れたからって、そんなことは気にしないでも」
早くも「あいつ」呼ばわりされてしまう兄のことを少しだけ不憫に思ったけれど、すぐに気にしないようにすることに努める。人生にはそういう時(本人に罪はないのに突発的に不憫に思われてしまう瞬間)だってあるのだ。
「少なくとも、僕は今までと同じ目線であんたを見ることはできないよ」
「なぜ」
やっぱりこわい。
「電話機は葡萄じゃないから」
「そしてこの部屋はミラノじゃないから?」
そういうこと。
僕はうなずいた。
部屋を出ていく彼女の背中を玄関まで見送りながら、僕は訊いた。
「兄貴にはもう挨拶したの」
「これから」
その日の夜、彼女から連絡が来た。
黒電話ではなくスマートフォン越しに、だ。
それは写真付きのメールであり、本文には「もしもし」とだけ書かれていた。
添付されていた画像を開く。
巨峰を電話機に見立てて頬に当てる、彼女の姿があった。
視線はおどけたようにどこかの空を見ていた。
じっと僕がその写真データを眺めていると、今度は着信音が鳴った。
「もしもし」
「どう」と、彼女の声がした。
「世の中には絶対なんてものはないのよ」
僕はいろいろと文句やら何やら言いたかったが、向こうで彼女の息遣いを聴いてしまうとなんだかすべてがどうでもよくなってきてしまった。
開きかけた口を閉じて、でも何か言わなくてはいけないような気がした僕は次に出てくる自分の言葉を待った。
棚の上には相変わらず黒電話が、僕の横顔を映していた。
点けっぱなしのテレビは外国の天気予報を流していた。
ミラノでは明日、雨が降るらしい。
おわり
(第02回 了)
縦書きでもお読みいただけます。左のボタンをクリックしてファイルを表示させてください。
* 『僕が詩人になれない108の理由あるいは僕が東京ヤクルトスワローズファンになったわけ』は毎月24日に更新されます。
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■