『リヴァイアサン』 (2012年、アメリカ・フランス・イギリス合作 ドキュメンタリー映画)
監督・撮影・編集・制作:ヴェレナ・パラヴェル、ルーシァン・キャステーヌ=テイラー
映画『リヴァイアサン』を観賞するにあたって観客が経験することは何だろうか。それを言語化することは、映画批評家を悩ますものとなるだろう。本作において文化的、社会的な立場を作品に問う批評はあまり意味を持たない。そうしたものを象徴する記号は、本作には見当たらない。言葉すら、無い。あるのは理不尽なまでの死や、機械的な動作、息遣いのみである。日常生活にも強く関わる題材を用いて、暴力的な映像の奔流に観客を叩き込む本作のダイナミズムは、映画史において似た形をもったものが散見する。本作を前にして映画批評家ができることは、そうした過去にある似た事例、それも画面に美学的な観点を要請するものを参照し、その点において読み解くという姿勢を持つことだろう。
1956年、『沈黙の世界』(ジャック=イヴ・クストー、ルイ・マル)は、フランスの映画批評家アンドレ・バザンを驚嘆させた。現在において、海洋ドキュメンタリーの開祖として映画史に位置づけられている『沈黙の世界』は、海洋調査船カリプソ号に乗った冒険家=製作者たちが、サンゴ礁の調査活動を記録したものである。スクーバ・ダイビングをして海中の世界を、海の生き物の生態をカメラに収めるというのは、映像体験としては革新的なものがあったらしく、バザンはそれによって受けた衝撃を次のように述べている。
『沈黙の世界』を批評するということの中には人を馬鹿にするような一面があるというのは、確かである。というのは、結局のところ、この映画の持つ様々の美しさは、何よりもまず、自然そのものの持つ美しさなのであり、従ってこの映画を批評することは神を批評するのも同然だからである。
(『映画とは何かⅡ―映像言語の問題』「9 『沈黙の世界』」234頁、『小海永二翻訳撰集4 映画とは何か A・バザン』所収)
バザンは映画を批評するにあたって、自然≒現実を参照し、その本質を写し取るリアリズムを重視した。バザンにとって広大な海中の世界は、嘘偽りがなく、これまでも、そしてこれからも確実に存在し続けることが保証される、絶好の被写体だった。そして、海中の世界を動き回る冒険者=製作者たちの姿に、空を自由に飛び回る人類の夢を重ね合わせた。バザンは科学技術の発展によって鮮明に捉えられた大自然の姿が、映画において製作者が手を加える部分(物語的な要素など)よりも詩情を醸し出していると感嘆し、批評の不可能性すら感じ取った。
1895年、フランスのリュミエール兄弟が、シネマトグラフをパリのグランカフェで一般有料公開したことで「映画」は誕生したとされる。当時の人々が鑑賞していたのは、工場で働く人々の姿や、列車が到着する瞬間を捉えた映像であり、現在においては他愛のないものだ。しかし、自分自身を客観視できるような、日常の生活、その一部を収めた映像は、現実にある空間に感動的な何かがあると当時の人々に教えるには十分であった。バザンが『沈黙の世界』に感じ取ったのは、こうした映画史初期の感動と似たものだろう。
しかし、バザンは『沈黙の世界』の論考の中で、こうした映像に詩情などの効果が期待できるのは、映像自体がそれまで人々の眼に触れられてこなかった、つまりは真新しいことが条件であるとも述べている。現代において、確かに世界に存在する事物・事象のそのままの姿を切り取り、バザンや映画史初期の人々が経験したような、映像を提供することは可能なのか。結論から言えば、それは可能だった。『リヴァイアサン』においてそれは見事に達成されたのだ。
『ヨブ記』を引用したインター・タイトルを越えた後に観客を待っているものは、ほとんどブラックアウトした“何か”を捉えた映像である。カメラがどこを向いているのかわからない、粒子の荒い映像が観客の視界に入っていき、やがて騒々しい機械音とともに、その輪郭は少しずつ露わになっていく。
どうやら、男たちが網と鎖を用いて、怒鳴り声を上げながら何かを引き上げようとしている。そして彼方には、光の粒のようなものが見える。鳥の群れだ。それをよそに男たちは作業を続ける。『リヴァイアサン』が漁船と、その漁業を巡る海洋ドキュメンタリーであることを判断できる材料は、不確かで、そして暴力的であるという印象を伴うものなのだ。
“漁業を扱った海洋ドキュメンタリー”であることは間違いない。だが、その言葉から『リヴァイアサン』の持つ映像の特性が、どれほど捨象されているかを計り知ることはできない。クレーンによって船の甲板の中心に据えられた網が開き、大量の魚が放出される映像のダイナミズムには、似たような場面を捉えたドキュメンタリー映像があったとしても、到底及ぶことはないだろう。超小型カメラGoProは、人間の目線を脱・中心化したカメラ・アイを本作にもたらし、甲板をはねる魚、その死体、それを啄むカモメの姿を人間では接近し得ないレベルの距離で大写しにする。
魚に対して至近距離=人間に対して遠距離であるカメラが捉える人間は、エイのひれを淡々と切り刻むなど、非-人間的なものとしての印象を強くしている。人間の声は機械音に負け、正確に聞き取れるものではなく、ひたすら機械の一部のように仕事をする姿しか観客の視界に入ることはない。目元や体毛を捉えたアップなどからは、本作が捉える人間が、風景の一部に過ぎないという主張が見える。表情が捉えられることはあっても、そこに人間としての個性はないのだ。
人間は船が積んだ機械と同等の位置を占めるものとして表象され、本作の主題と言うべきものは、それを覆う漁船ということになるのだろうか。だが、それだけでは済まないだろう。漁船が、まるで吐血するかのように魚の死体とその血液を流す先には、当然海があるし、そしてその上には空を飛ぶカモメの群れがある。海に死体が流れるなか、生命力あふれる存在が空にいるという二項対立を感じさせるショットは、漁船という存在を矮小化してしまうだろう。『リヴァイアサン』の中心は観客が当然知っている漁業という、社会において必要なもの、更には大自然の一幕であり、漁船はその一部に過ぎないのだ。
『リヴァイアサン』は言うなれば、漁業という現象を精密検査する人間ドックのような映画だ。最初は外気に触れる甲板が中心的に配列されていたかと思えば、やがて船室の映像も多用されていくが、これはまるで骨格から内臓までCTやMRIで検査するかのようではないか。GoProは言うなれば、医療器具のような役割を果たしていると言える。さらに言えば、本作のデクパージュにはある法則性があり、決して無作為なものではない。
船の一室で座ってぼんやりとテレビを眺める船員を捉えた長回しショットがあるが、この船員はやがて眠気を感じたのか、眼をしょぼつかせる。場面が船室の外へ移ると、外は暗くなっており、同時に映画自体も終盤に差し掛かっている。眠気を感じる船員の存在があることの意味は、朝から夜まで、起きてから眠るまでという、時間の経過が観客に意識される、ということだろう。様々な個所に、そして様々な角度から物体を捉えるGoProを扱ったデクパージュの乱雑さを、直線的な時間の進行という側面を与えることで整理するとともに、この漁業を巡る現象を捉えた映像に、生き物が起きて活動したのちに眠る一日を記録するような生態学的な性質を与える。エンド・クレジット後に流れる、彼方にある鳥の群れか何かを捉えた粒子の荒い、ぼやけた映像は、物言わぬ怪物の寝ぼけ眼といったところか。
アンドレ・バザンは確かに存在することがわかっているが、カメラが向けられることでその美しさを露わにする海中の世界、そしてそれによって生まれる感動を、〈海中探検の美学〉と形容した。『沈黙の世界』の半世紀後に登場した『リヴァイアサン』は、海と空の境界にある海面、そしてそこに浮かぶ漁船を巡る現象を捉えたものだった。そしてそれは観客が確かに知っているはずの漁業という活動への印象を覆し、新たな世界を視界に入れるものだった。〈美学〉というにはあまりにも乱雑な印象を受ける本作をあえて形容するならば、〈“怪物”の生態学〉とでも言うべきか。技術の発展により、その輪郭をほんの少し観客の視界に見せたこの“怪物”は、世界の至るところに転がっているのかもしれない。
【参考文献】
アンドレ・バザン(著)、小海永二(訳)『小海永二翻訳撰集4 映画とは何か A・バザン』丸善株式会社
杉田卓也
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