『オール・ユー・ニード・イズ・キル』(2014年、アメリカ・イギリス合作)
監督:ダグ・リーマン
原作:桜坂洋『All You Need Is Kill』
脚本:ダンテ・W・ハーパー他
出演:トム・クルーズ、エミリー・ブラント他
戦争とは「物質的」勝利を収めることよりも、知覚の場の「非物質性」を支配するところに成立しており、現代の戦争の担い手がこの知覚の場総体への侵入を図ろうとするようになると、ほんとうの戦争映画は必ずしも戦争や何らかの戦闘場面を見せる必要がなくなる。なぜなら映画が不意打ち(技術面、心理面にわたる)をもたらすことが可能になった瞬間から、事実上それは兵器のカテゴリーに加えられることになったからである。
(『戦争と映画』ヴィリリオ、ポール 28-29頁)
観客が真に信頼がおける映画、ないし映画的なものの形成に有効な要素は何だろうか。様々なものが挙げられるだろうが、最も素朴な答えは、観客と同じ視点を共有できる主役と、それを生かす物語になるだろう。主役が出来事を受け止めること、観客が映像を眺めることが、同じ位相で語られることがあるのならば、それは観客が映画を信頼することができたことが前提となるのかもしれない。だが、そこには映画という虚構に対する危うい認識が働いてはいないだろうか。物語の主役という客体の経験を、自分という主体の経験に置き換えることが可能だとされる映画があったとして、それに感情移入や信頼などという生易しい言葉を用いて良いのか。それは「詐術」とでも言うべきものを観客が進んで受け入れることと同義ではないのか。そんな疑問を喚起させる映画がある。『オール・ユー・ニード・イズ・キル』だ。
本作は桜坂洋の同名小説を原作としている。日本の、所謂ライトノベルと呼ばれる作品群の内から選ばれた原作がどうハリウッド映画化されたかと言われれば、極めて西洋的な外観を持った作品に仕上がったと答えよう。突如として宇宙から地球に飛来したギタイと呼ばれる侵略者を前に、機動スーツを装着した人々が駆ける戦場が幾度となく画面に表れる本作の映像には、違和感を生むような和洋折衷の要素がない。物語上、大きな位置を占める殲滅作戦の舞台もフランスのノルマンディーであり、アジア的なものはあまり感じられない。
そしてその最たるものが、主演のトム・クルーズであろう。『ミッション・インポッシブル』シリーズなど、大掛かりなアクション映画において、そのスター性を発揮してきたトム・クルーズが主演であることは、本作が日本原作の映画である以前に、純然たるハリウッド・メジャーの映画であるという印象を強くする。そして本作は、そんなトム・クルーズが演じる米軍のメディア担当将校のニュース映像に収められている姿を観客が発見するところから始まる。
ケイジ(トム・クルーズ)はギタイが飛来したことにより起きた全世界を巻き込んだ戦争により、立ち上げた広告ビジネスに失敗し、仕方なく軍に入隊する。メディア担当として活躍するが、やがてギタイとの最終決戦である殲滅作戦のため、前線に送り出されることになる。実践経験など皆無なケイジは、命令を下した将軍に反発するが、それにより逮捕され、これまで培ってきた地位も剥奪されてしまう。前線基地に送られ、翌日には殲滅作戦に参加したケイジは、抵抗も空しく命を落とす。だが、彼は殲滅作戦の前日に目を覚まし、なぜか生き返っていることに気づく。そしてまた殲滅作戦に参加し、命を落とす。彼は戦場に赴く前日に再び戻っていく……。
映像は殲滅作戦までの二日間でケイジが死亡するプロセスが何度も繰り返されることを、観客に対して表明している。最初、彼は何が起きているか把握できないが、状況を打開するには死んだ経験を頼りに戦場を生き延びるしかない、ということだけは達成すべき目標としてわかっている。それゆえに機動スーツを身にまとい、何度も戦場に向かい、敵の細かな動きなどに対処する方法を学び、そして死ぬ。やがて彼はかつてヴェルダンの戦場で、自分と同じ体験をしたというリタ(エミリー・ブラント)に出会う。彼女が言うには、ケイジは死ぬ間際にギタイの血を浴びたことにより、“彼ら”と同じループ能力を得たのだという。
ここで本作の少し複雑なループにまつわる設定をまとめておこう。
・ギタイは殺戮という目的を共有する群体であり、オメガという個体がそのほかすべての個体に指示を出す。オメガという頭脳が活動を停止した時、すべてのギタイが同じ運命を辿る。
・ループ能力はアルファというギタイが死亡した時点で発動する。ループをする目的は、敵対する人類の行動パターンを読み込み、知覚において先制を常に取ることにある。
・またケイジは血を浴びて何度かループを繰り返すと、少しずつギタイの情報が頭によぎるようになる。これを元に相手の手の内を探ることが可能になる。しかし、リタいわくギタイはデマの情報を流すことができる。リタがヴェルダンの戦場でループを繰り返すうちに自軍を勝利に導いたのも、実は人類がギタイに勝利できるという錯覚を与えるためだという。
・・血がなくなるとループ能力は失われてしまうため、必ず拳銃で頭を撃つなどして、死ななければならない。
・ケイジが戦場を離れてどこかで安住をしようとしても、人類はすぐさま滅亡する。言うなれば殲滅作戦の実行される日は“審判の日”であり、戦うしか道はない。
極めて制約の多い、ゲーム化された空間が本作における「戦場」であることが、おわかりいただけるだろう。そして展開されているのは、兵士の練度や、物量によって決まる戦争ではなく、高度な技術が用いられた戦争機械による情報戦である。徹底して非人間性を追求した外見を持つギタイと、無骨な機動スーツを身にまとうケイジは、単に血液とそれに伴うループ能力という点だけでなく、戦争機械的である、という点でも同一性がある。ギタイという戦争機械と、同じ能力=技術を手に入れたケイジという戦争機械の、知覚において如何に相手より優位に立つかどうかが問われる戦場は、ポール・ヴィリリオが言うところの核抑止戦略を越えた「いつどこででも攻撃に向けた敵領土の視覚映像を獲得しうる能力にもとずいた抑止戦略」(『戦争と映画』13-14頁)が集約されている。そしてこの戦争における知覚とは、視覚装置でもある戦争機械に依拠するものである。つまり、本来的に知覚の主体足らねばならない人間は、戦争機械を通して戦争を把握=経験する。
進歩したテクノロジーの交差するオートメーション的な戦争の縮図を、観客はさながら司令室のモニターを眺めるようにしてスクリーンから受け取る。換言すれば、観客は戦争機械=ケイジという客体の経験を、自分という主体の経験に変換可能なものであるという感覚を得る、ということだ。しかし、ここまでの要素は本作が映画として、映像として高い次元に飛び立つための前提条件に過ぎない。そして、本作が高次の段階に進んだとき、ここまで積み上げられてきた要素は、観客に対して実践される「裏切り」への布石でしかなくなる。
ケイジはリタと協力して打開策を探していくが、それは彼女との離別を何度も経験するという苦行を自らに課すことでもある。親身になって訓練を施し、ともに戦ってくれるリタに対し、ケイジが愛情を募らせても、それは不毛なことになってしまう。ケイジがループすれば、リタの記憶は消え、それまでの関係は振り出しに戻ってしまう。ケイジは自分の経験のみが蓄積されていくという葛藤を抱えた主体なのだ。とはいえ、少なくとも観客にとってのケイジは経験を同じくする客体と呼べるものであり、彼のほぼすべてを把握しているかのように思える。
しかし、そんな認識が誤りであるということに、観客はまもなく気づく。ケイジとリタはノルマンディーの海岸をやっと乗り越え、オメガが潜んでいると思われるダムに向かう。この道中の車内では、奇妙なやり取りがある。ケイジはリタの親類についての情報をいつ聞いたのかわからないが知っており、リタの考えていること、発言しようとしていることに対し、先手を取って反応をする。これにリタは混乱する。それまでケイジがそういった情報を知る描写は一切ない。そして重要な点は、ここにある。本作は、ケイジがループをし、一度死んでも記憶を引き継いで生き返るという設定は提示するものの、何回それが行われたのか、正確な数字を出すことはない。ループ=反復されるケイジの行動が部分的に省略され、前の行動と異なる部分だけが画面にはじき出される、という本作の構造は、上映時間を考えれば至極当然の設定だと納得がいく。とはいえこの構造における、編集による省略で削り取られたケイジの体験は―さらに細かいレベルで言うならば、ショットとショットの間は―観客が出来事を知覚する上でのブラックボックスである、ということを忘れてはならない。
車の燃料が切れると、二人は人近くの民家に入る。古いヘリを発見したリタは、これを使ってダムに向かおうと提案するが、ケイジは燃料を車に移し替えるほうが良いと主張する。ヘリの鍵も見つからないため、ケイジは怪我をしたリタを気遣うように一休みをしようと提案する。ケイジはリタのためにコーヒーを淹れるが、彼女は違和感を強くする。自分が彼に話してはいないはずの味の好みを何故知っているのか。リタはついに彼が隠していた秘密に気づく。彼は既にこのパートで起こるおおよその出来事を知っていたのだ。そして観客は、ここまでの時間帯で起こる出来事を今の今まで全く知らなかった。
リタは、ケイジの「現在」における行動が「過去」の行動を反復したものだと気づかなかった。騙されていたのだ。ケイジという人物に虚実入り混じるである情報伝達を担っていた軍部のメディア担当という設定があり、そして何より彼を演じるのがハリウッドのスペクタクルを牽引してきた一人であるトム・クルーズであることに、ここで初めて意味が生まれたと言える。観客もまたゲーム化された箱庭のような戦場で駆け回る、さながら喜劇役者のようなケイジという客体の行動のすべてを把握できていると錯覚していた。しかし、彼は喜劇役者などではなく、演技をする戦争機械的存在なのだ。ケイジの行動は、不可視であるブラックボックスにしか存在せず、今の彼が何回ループを経験したのか、一体どれほど劇的な事態に直面したのかはわからない。さらに言えば、次のショットにモンタージュされた瞬間、観客の目の前に広がる光景は、ケイジにとってはもう一巡した世界かもしれない。知覚において優位に立っていたのは、ケイジ=映像であり、いつの間にか観客との間には「戦争」が発生していたのだ。
ケイジはこのパートにおいてはどうあってもリタは死に、その先はないと知っている。だからまだ選んでいない選択肢としてある、ヘリの燃料を車に入れてダムに向かうことにこだわったのだ。結局ヘリを動かすとリタは死んでしまい、ケイジは自殺によってまた世界をループさせる。このシークエンスは、本作にはケイジとリタというどうあっても「運命によって決められた死」によって結びつくことが阻まれるカップルのメロドラマがあり、そして観客の知覚と経験を揺るがすサスペンスの側面もあることを強く喚起させる。
リタのことを想うがゆえに彼女を頼ることをやめ、ケイジは孤独にダムに向かうことを決断するが、彼の表情は極めて硬質なものに変じている。もはや、彼はギタイの領土を侵犯し、彼らを殲滅することのみに専念する戦争機械そのものである。画面に映るケイジは、他人の死を気に掛けることなく、出来事のすべてを知覚し、それでいて観客に把握されることを許さないという、画面内、画面外の二つのレベルにおいてイニシアチブを取得した存在なのだ。
ダムに赴いたケイジを待っていたのは罠であり、そこにギタイの頭脳であるオメガは存在しなかった。ギタイは、ケイジが手に入れた血液=ループ能力(=技術)を取り返そうとしていたのだ。それに気づいたケイジは、リタとともに軍上層部にある機材を用いて、オメガの居場所を探そうとする。ケイジは軍上層部の厳重な管理体制を、リタとともに難なく潜り抜けるが、その際に手順を丁寧に確認して進んでいる。観客にとっては、軍上層部に突入するというパートは初めて目にするものだが、ケイジにとっては何度も経験したことなのだ。観客という主体と、ケイジという客体の経験は完全に分離し、もはや先の出来事を把握どころか予測しようもない空間が画面に広がる。
しかし、こうした先の見えない、不安定な地盤を与えるサスペンスは、まったく別の形態に変貌を遂げる。ケイジはミスを犯して気絶し、やがて目を覚ますと輸血をされてしまっていることに気づく。これにより、彼はループ能力を失う。死という経験によって、敵の手の内を把握するという、戦争機械としてのアドバンテージをケイジが失うことにより、観客と彼=映像の間にあった「戦争」状態は解消され、主体と客体の間における経験の分離も消え去る。そして、映画と観客の関係が回復した瞬間に、これまであった死の概念がより切実なものとなる。ケイジが死んだ瞬間に次のパートが開始していた本作にとって、ループ能力のなくなった彼の死というものは、“映画の終わり”を観客が経験することの予示を与える。
それゆえに、先の見えない不安定な地盤を与えるサスペンスが消失しても、本作は上映終了時間に近づくことに緊張感をむしろ増幅させ、観客の集中力を弛緩させない。ついにオメガの居場所がわかったケイジとリタは、次に死んだらもう先はないと知りつつ、最終決戦に向かう。リタがギタイに襲われた瞬間を振り切り、オメガにケイジが特攻するクライマックスは、戦争機械たる外見を強調する機動スーツが脱ぎ捨てられ、彼が生身の人間に戻っていくプロセスを表してもいる。観客は画面の中でうごめくオートメーション的な戦争機械を眺めることを辞め、生身の人間が主導する物語を見つめる、というわけだ。
本作は画面上で戦争機械同士が繰り広げる情報戦を描きつつ、メタレベルにおいての「戦争」、つまりは映画そのものが戦争機械となり、観客に「詐術」をかけるというサスペンスであった。このサスペンスは映画に限らず、「観客」が映像メディアそのものにある物語性を信じることの危うさを突きつける。それと同時に、終盤ではそのサスペンスが、生身の人間そのものを見つめること、つまりは観客という主体と主役という客体の経験が一致することによってもたらされるサスペンスに変じる。これは換言するならば、観客と映画が結びつくまでを、サスペンスという障害を乗り越えさせることで表現する、メタレベルのメロドラマと言うべきものだ。この形式があるからこそ、観客は画面に広がる物語を初めて信頼することができる。
オメガと同士討ちをしたことで血を浴び、再びループ能力を手に入れたケイジが、リタと“初めて”出会い、これからの関係を想像させるラストは、言うなれば、こうしたメタレベルのメロドラマが画面内に象徴されていると考えられる。ラストショット、ケイジの笑顔を見た瞬間、観客はこれまで鑑賞してきたものが、虚飾のない「再生」の物語であったという確信をついに得ることができるのだ。
杉田卓也
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■