ラモーナ・ツァラヌさんの新連載エセー『交差する物語』『No.002 ブカレストという時間の渦(上)』をアップしましたぁ。ラモーナさんはルーマニア北部のスチャヴァ市のお生まれのようですが、今回は学生時代を過ごした首都ブカレストについて書いておられます。まだ連載二回目ですが、ちょっと筆がノッてきた気配がありますね。
ラモーナさんは1985年生まれで、89年のルーマニア革命の時は4歳ということになります。ただその衝撃は肉体と精神に刻印されているようで、『東欧の国々において共産主義の崩壊が進む中、ルーマニアだけがその政治革命が血まみれになった。どうしてそうでなければならなかったのは現在でも不明だが、あの時の混乱の中で、長い間政治的権利や外との関係を許されなかった人々は、無闇にお互いを疑い始め、誰が敵か、誰が味方かが分からない状態になっていた。恐怖と混乱が頂点に至ったころ、自由の形を知らない者が「自由を!」と叫び出し、この言葉を口にした多くの若者が命を奪われた』と書いておられます。
自由はわたしたちにとって本質的な問題です。夏目漱石は『草枕』で、誰もが無限の自由を主張し始めればいたるところで争いが起こり、社会は混乱するだろうと書いています。漱石は自由主義が抱える根本的問題を指摘しているわけですが、この問題もまた自由によって超克される以外にない。
自由主義とは自己の自由と同様に他者の自由を認め、尊重することです。異なる意見・立場の他者を強制的に排除せず、むしろ利害の対立がより良い社会の糧になることを受け入れなければ自由主義社会ではない。第一次世界大戦から現代に至るまで、初動段階において自由主義国家が全体主義国家に遅れを取りがちなのはそのためです。自由主義国家では意見は割れますが、全体主義国家には一つの国家意志しかないからです。しかし自由のかけがいのない大切さを知る者たちは、遅々とした議論こそを尊重しなければならない。
これはもちろん文学の世界にも適応されます。自由が人間存在にとっての最重要思想であるならば、人間とは何かを問う文学では、自由は最もラディカルに行使されなければなりません。現在、高度情報化社会に逆行するように、小規模な相互安全保障集団を作り、他者の批判に耳を塞ぐ文学者たちが増えています。批判を〝悪口〟とみなし、異なる意見の他者存在すら認めない文学者もいる。そのような〝仲間意識〟ほどくだらないものはない。たった一人の表現を不特定多数の他者=社会に受け入れさせるためには、文学者は孤立した自由な個である必要があります。
ラモーナさんは日本人には馴染みの薄い東欧出身ですが、中央ヨーロッパのドイツで勉強され、かつ日本のお能の研究者です。いわば生きる比較文学(文化)的存在のお方ですね(爆)。ラモーナさんの中にはいくつもの文化的な鏡(パラダイム)が存在するはずで、それに照らし合わせれば様々な考察が生まれるでしょうね。『交差する物語』、刺激的なエセーになりそうですぅ。
■ ラモーナ・ツァラヌ 新連載エセー 『交差する物語』『No.002 ブカレストという時間の渦(上)』 ■