私はルーマニアの北にあるスチャヴァ市に生まれ育った。スチャヴァから首都のブカレストまでの旅は、車でも、電車でも7時間ぐらいかかる。
ブカレストは私が大学時代を過ごした町で、思い入れのある場所だ。それにしてもこの町に対する私の気持ちは、好きだとか好きではないというような言葉では片付けられない。そもそもブカレストに住んでみて、それを簡単に好きだと言える人はあまりいないと思う。あの都市には気難しい恋人のような側面がある。人々のブカレストに対する執着は、好きだという気持ちからも、嫌だという気持ちからも生じている。曖昧なのだ。
自分のブカレストへの執着は子どもの頃から始まった。父親が一時期ブカレストで仕事をしており、母と私たち子ども二人の住んでいたスチャヴァ市へは、年に2回ぐらいしか帰れなかった。母はたまに仕事の休みを取って、子どもを祖父母のところへ預けて父の所を訪れた。一回、思い切って3歳の私と1歳の弟を連れて、夜行電車に乗ってブカレストへ旅に出た。離れた所で日々大きくなる子ども達の顔が見たかった父親の提案だったのか、母の勝手な思いつきだったのか、または二人で計画したことなのか、私には分からない。しかしスチャヴァからブカレストまで夜行電車で行くには、今も昔も色々気を付けなければならないことがある。幼い子ども二人を連れて行くのはどう見ても無茶な行為だった。今の自分が当時の両親に会えたら、絶対にやめさせる。ちなみに、今の自分は当時の私の両親より年上だから、言うことを聞かせてやる。
ブカレスト中心街
実家の町を出たのはあの時が初めてだったが、さすがにあの頃のブカレストは思い出に残っていない。年中涼しげだったスチャヴァよりずっと暑かったことしか覚えていない。特に夜は過ごしにくく、普段吸っていた空気とは違う、重たい温かみのあるあの町の空気に違和感があった。夜は蚊に刺されないように、両親がシーツを使ってベッドの上にテントのようなものを設置してくれた。テントみたいな空間を初めて体験した私は、そこで遊ぶのがとにかく楽しくて、ブカレストという所は面白いと思った。
翌年―1989年の初夏頃―母は私だけを連れてまたブカレストへ旅に出た。町を歩くと人の多さと忙しさ、洋服に付く埃、車の騒音などが、ここは実家の町とは違う場所だと知らせてくれた。両親は目をきらきらさせながら、町の中心を見物させてくれた。チシュミジウ公園を散歩して大学広場まで歩きながら、その歴史などについて色々聞かされたのだろうと思う。しかし自分が関心のあるところにしか目が行かず、私と同じように散歩に来ていた子どもや若者が、大勢いたということしか覚えていない。
大学広場の辺りに来ると、父親が突然、モグラみたいに地下を走る電車があるよ、かっこいいよと言い出して、特に必要もないのに地下鉄に乗った。人ごみに押されながら生まれて初めて地下鉄に乗った私は、モグラが毎日見ている景色はこのようなものかと思った。地下鉄を降りて地上に上がると統一広場だった。大学広場周辺のごちゃごちゃしている雰囲気とは違って非常に広かった。どこよりも人が多く、みんな忙しそうに往来していたが、15階立ての真っ白なマンションビルに囲まれていて立派に見えた。5階立ての建物しかなかった町に育った私には、マンションビル群が絵本に描かれたお城のように見え、我を忘れてその風景を眺めていた。
大学広場
日差しの中で虹を描く噴水の向こうには、両親の説明では、この国のどの建物よりも高くて広い国民の館という建物が見えた。統一広場と国民の館をつなぐ道路は白いマンションビルに囲まれていた。その白いお城のような建物に心を奪われた。無数の窓があり、窓の向こうには無数の部屋があるのだろう。それぞれの部屋には、色々な面白い物が置かれているに違いない。実家にある物を隅から隅まで知っていたように、あのお城みたいなビルの部屋を全て回って、各部屋に何があるかを発見する自分を想像し始めた。建物の大きさから、終わりのない冒険を予感していた。しかし、母はそんなことはいけないと言うから、大きな不満を抱きながら、いつか必ずまたここへリベンジしに戻ってくると自分自身に約束して、田舎の実家に帰った。
数ヶ月後、あの場所で人が撃たれて百数人が死んでしまうとは、誰も想像できなかった。東欧の国々において共産主義の崩壊が進む中、ルーマニアだけがその政治革命が血まみれになった。どうしてそうでなければならなかったのは現在でも不明だが、あの時の混乱の中で、長い間政治的権利や外との関係を許されなかった人々は、無闇にお互いを疑い始め、誰が敵か、誰が味方かが分からない状態になっていた。恐怖と混乱が頂点に至ったころ、自由の形を知らない者が「自由を!」と叫び出し、この言葉を口にした多くの若者が命を奪われた。大学広場やそのすぐ近くの革命広場を囲む建物の外壁に、今でも弾丸の跡や簡単に消えない染みが残っている。にもかかわらず、1989年12月の悲劇は次第に忘却に包まれ始めている。もしかすると、やがてあの出来事の意味を全く知らない者が出てきて、革命広場辺りの建物の壁を新しくペンキで塗り出すのではないかと私は恐れている。
今年は1989年の政治革命から丁度25年になる。人の記憶を甦らせるため、色々な行事が開催されるであろう。ルーマニア人は、あの時ブカレストや他の町で犠牲になった人のおかげで現在があると、改めて思い出さなければならない。思うのだが、ルーマニア人が自分たちの現在を大切にさえしていたら、1989年の亡霊たちは今もそこで生きている人々を恨むことはないだろう。今のルーマニア人がしっかりと希望を持って生きていれば、あの亡霊たちはみんなのひどい記憶紛失さえも、許してくれるのではないかと密かに願う。
ラモーナ ツァラヌ
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■