池田浩さんの文芸誌時評『No.005 J-novel 2014年07月号』をアップしましたぁ。ジェイ・ノベルさんは『新装開店』らしく、それに合わせて短篇特集も組まれています。この編集後記で何回か書いていますが、小説文芸誌の特集はいい加減でありまふ。実際問題、編集者は担当している作家の作品を仕上げることで手一杯です。腰を据えて特集を組む時間などごぢゃりません。毎号毎号、それなりに力を入れた特集を組んでいるのは短歌・俳句・自由詩などの詩誌ですが、こちゃらはこちゃらで大きな問題を抱えております。
はっきり言いますと、詩誌の編集者も詩人も詩の善し悪しをリアルタイムで正確に判断できません。確かに〝こりゃダメだ〟という作品はわかりますが、一定レベルを超えた作品の中で、どれが優れているのかになると途端に意見が割れます。そのため詩作品に編集者のアドバイスなどが反映されることはない。作家が書いたとおりに掲載されるのが常です。詩作品には多かれ少なかれ新しさ(前衛性)が求められ、この前衛性を評価するのが非常に困難なためでもあります。
その代わりのやうに詩誌では特集が組まれるわけですが、それは詩のジャンルが本質的に、〝詩とはなにか?〟を問う共通パラダイムを持っているからです。乱暴に言えば、短歌の場合は日本文学の本質、自由詩の場合は日本文学の未来(前衛性)が問われます。日本文学の中で古くも新しくもある俳句の場合は、本質と前衛性が問われるわけです。つまり詩といふ文学ジャンルはその本質や未来(前衛性)が非常に曖昧なのであり、作家たちは共同で〝詩とはなにか?〟を問い続けている創作者集団だといふ面がある。
ただ詩誌はその探究を腰を据えて行えないといふ弱点を持っています。雑誌も単行本も売れないので、多くのメディアは自費出版でその経済を回している。詩誌はジャンルの特性に忠実に毎号〝詩とはなにか?〟的な特集を組みますが、小説文芸誌のような労力はかけられず、一ヶ月くらひ前に依頼した原稿が並びます。作家は慌ただしく原稿を書くので、とりあえずのアイディアや状況論しか書けない。短い時間で〝詩とはなにか?〟や〝芭蕉〟〝萩原朔太郎〟などについてまともな原稿が書けるがわけないのです。しかし作家はまた、自分が書いた原稿を否定できない動物です。それを繰り返していくうちに詩論などこんなもんでいいのだと思い込んでしまふ。実際、詩史上で重要な作品や論考の多くは、作家が時間をかけ腰を据えて書いた作品です。詩誌に連載された作品が傑作になることは非常に稀です。
池田さんは『小説は後衛である。それを認めたところからしか、優れたものは生まれない。少なくとも小説の新しさとは、目指して得られるものではない。のちに振り返られ、その時代の総括とともに認識されるものだ。投資によって即座に回収が見込める「新装開店」の概念とは縁遠い』と書いておられます。
まったくその通りだと思います。小説文学の基盤は詩よりも遙かに固い。作家の思想が登場人物に反映され、それらが生きる空間が設定され、そこで流れる時間が決まり、最後に文体(書き方といふ意味です)が設定される。この要素のいずれかをいじると小説文学は〝前衛的に見える〟。しかし小説を構成する要素全てを変更・棄却することはできない。小説は小説文学の枠内で前衛的試行が試みられているわけです。そのため優れた作家の多くは、前衛よりむしろ古典的相貌の作品で小説文学の本質に迫ろうとします。この小説文学の底の固さを池田さんは『小説は後衛である』と表現されているわけです。
ジェイ・ノベルさんに限りませんが、誌面刷新はメディア側の都合です。作家は淡々と自分が信じる作品を作り続ければ良い。ただなにを作っていいのかわからないのが現代作家の悩みでしょうね。そのためとりあえず売れた作品を良い作品とするといふ風潮が蔓延しています。売れるといふのは単行本だけでなく、雑誌に掲載されるということも含みます。自己の作品に確信を持てない作家の弱さが、自己や他者の作品評価をメディアに委ねるといふ現象が起こっています。文学の世界はかつてないほどメディア主導型になっていますが、それは作家の不甲斐なさが引き起こした悪循環だとも言えまふ。
■ 池田浩 文芸誌時評 『 No.005 J-novel 2014年07月号 』 ■