谷輪洋一さんの文芸誌時評『No.013 小説すばる 2014年06月号』をアップしましたぁ。湊かなえさんの新連載小説『ユートピア』を取り上げておられます。湊さんは不安を掻き立てるミステリーをお書きになる作家です。谷輪さんはその特徴を『湊かなえが個々の人間関係に先んじて設定する「場」は、必ずしもリアリティ溢れるものではない。ただ、そのような場に影響を受け、むしろ場によって初めて成立する個のあり様、その輪郭の不確かさと、それに反比例して強まってゆく場の磁力との関係については、なんとも言えない嫌なリアリティを感じる瞬間がある』と書いておられます。
また湊作品の『嫌なリアリティ』について、『なぜ嫌なのかと言うと、自分たちがそこから抜けられない、・・・我々のあり様が本質的に変わってないのではないか、と突き付けられるからである。しかしまず、小説はすべてが絵空事であってはならない。何か一点、リアリティのあるものを抱えていなくてはならないとすれば、それは価値のあることだ』と批評しておられます。
つまり湊作品には大衆小説の常套である救い(カタルシス)がない。それを谷輪さんはヨーロッパ文学(キリスト教)文学との比較で考察しておられます。ヨーロッパ文学では『最後には自我は否定される。それが強烈な自我であればあるほど、ドラマチックな悲劇が構築され得るのだ。悲劇の果てにはカタルシスがある』わけです。しかし日本文学にはそのような構造(本質的には思想的なものです)がない。『我々を規定する場とは、神ー自我のような対立構造を含まぬものであり、我々は卑小さを思い知らされることなく、最初から卑小なものとしてある』のです。
小説は矛盾し混乱し続ける人間存在の現世を描く芸術であり、単純化していえばその二大テーマは男女関係と金です。小説は人間の解消し得ない絶対矛盾・混乱をありのままに描きながら、それをある種の昇華によって解消しやうとする。キリスト教の神的概念がその代表ですが、日本にはそのようなものがない。ヨーロッパのリアリズム文学を移植した自然主義文学が、風俗壊乱小説と呼ばれたのはそのためです。ただ自然主義文学は短期間に、文字どおり自然と一体化して心的平安を得る、極めて日本的な思想構造を作り上げていきました。
しかしやはりそれでは弱いのです。自然主義文学には、短歌・俳句的な季節の循環性に強引に救いを求める、日本独自の思想的詐欺という面が確実にあります。湊作品がベストセラーを連発できているのは、もはや手垢がついた日本的救い=カタルシスを排除しているからでしょうね。また先が見えにくい現代というテーマがそこに重ねられているからだと思います。
■ 谷輪洋一 文芸誌時評『No.013 小説すばる 2014年06月号』 ■