水野翼さんの文芸誌時評『No.014 小説 野性時代(2014年07月号)』をアップしましたぁ。西村賢太さんの連載『一私小説書きの日乗~野性の章~』を取り上げておられます。不肖・石川も西村文学が大好きです。西村さんは最近テレビにバンバン出ておられますが、他のテレビ文化人のような臭みがない。
ぶっちゃけた話、私小説は短い。せいぜい30枚から50枚程度の原稿に全精力を注がなくてはなりません。潤沢な原稿料は得られないでしょうし、ガチガチの純文学、といふより純文学の王道を行く数少ない私小説作家ですから、本の売上げもさほどではないと思います。西村さんのテレビ出演には、〝これも身過ぎ世過ぎのうち〟といった姿勢がはっきり見えます。
誰だってなにか仕事をして食って行かなければなりません。職業に貴賎なしですが、西村さんの場合、もしテレビなどの出演料が原稿や本の売上げを上回っても、あくまで文学が本業なのだという信頼感があります。身過ぎ世過ぎの仕事や雑事を、なにがなんでも文学に結び付けたがる三流文学者とは違うのでありまふ。一流文学者には文学的臭みがない。三流文学者はお洋服でもご飯、お酒、散歩、ライター仕事でも文学活動だぁと主張したがる。んなわけないぢゃん。不肖・石川、そうとうな西村文学ファンだなぁ(爆)。
池田さんは、『日記が普遍的に持つものは、もしかすると “ 日記性 ” というものかもしれない。日々、事も無しという雰囲気だけが、誰の日々にも共通してあるのだ。・・・大きな何かが起こっているときでも、その日々は平穏に見える、という捉え方もできる。・・・ドラマとはのちの編集、俯瞰によって初めて出現するものに過ぎない、という捉え方もある。後者の考え方は一種の死生観で、日記文学と私小説の土壌になっていると思う』と書いておられます。そのとおりでしょうね。そうでなければ私小説は成り立たないのであります。ドラマは殺人などのセンセーショナルな事件によってのみ起こるわけではありません。
池田さんはまた、『西村賢太は「女が買いたい。小説を書きたい」と記す。社会的認知を排除し、それが及ぶことのない “ 私性 ” の原点、すなわち日記において、この二つはまったく等価である。それがまるでわかってない、自称文学者の「ブログ」なるものを読まされるのは無為そのもの、今の時代の単なる不幸だ』と書いておられます。ブログも広義の日記だと考えれば、これもそのとおりでしょうね。
文学者の特徴は、その〝内面〟しか問われないことにあります。芸能人や政治家、経営者は、基本、必要最小限度の内面しか公開しません。美男美女なのに性格が悪いとか、恐ろしく金に執着する政治家・経営者だといふことが知られてはならんのです。つまり芸能人や政治家・経営者は外面が重要で、内面の露出は慎重にコントロールされる。しかし文学者は外面などどーでもよく、醜さや愚かしさも含めて内面をさらけ出すのが仕事です。池田さんが書いておられるように『原点にはどうしようもなく、抜きがたい “ 私性 ” がある』と認め、その全体像を文章の形で読者に伝達しなければならない。
三流文学者でたまに、原稿料が出ないブログには通り一辺倒のことしか書かないと書いている人がいます。しかしその程度のオツムだから、有償でも無償でもしょーもない文章しか書けない。文学者の文章で問われているのは常に内面であり、稿料の有無で外面的原稿と内面的原稿を書き分けられるわけがない。そして優れた作家の内面は西村さんの『女が買いたい。小説を書きたい』といった、ちょっと恥ずかしいけど魅力的な、計算され尽くしたカッコ悪さの表現にありまふ。さふいふ文章をコンスタントに書ける作家が『野性時代』さんなどに日記を連載できるわけです。
■ 水野翼 文芸誌時評『No.014 小説 野性時代(2014年07月号)』 ■