池田浩さんの文芸誌時評『No.010 群像 2014年06月号』をアップしましたぁ。穂村弘さんの連載『現代短歌ノート』を取り上げておられます。今回の穂村さんの連載には、『賞味期限の歌』が集められています。といいましても短歌文学の〝賞味期限〟をテーマにしているわけではありません。食品などの賞味期限が歌題です。池田さんは穂村さんの原稿から、
わが残生それはさておきスーパーに賞味期限をたしかめをりぬ 潮田清
四百円の焼鮭弁当この賞味期限の内に死ぬんだ父は 藤島秀憲
10分後賞味期限が切れる肉冷凍庫に入れて髪乾かす 田中有芽子
の三首を引用されています。これらはいわゆる〝口語短歌〟です。俵万智さんを始祖として穂村弘さんによって大々的に広められた新しい短歌運動です。短歌文学はとっくの昔に季語を手放し、五七五七七の形式も厳密には守っていません。口語短歌運動ではそれに加え、文語体表現も不要とされたわけです。むしろ短歌より後に生まれた俳句の方が、現在も季語や形式を死守しようとしています。
短歌は古代からの和歌の伝統があり、一昔前は古典の知識がなければ気軽に手は出せないという不文律がありました。また短歌は空間描写、つまり目の前の風物を写生すればそれで済む俳句よりも、詠むのが難しいと捉えられがちでした。短歌では作家の心理を表現できる余地がありますが、俳句より長いとはいえ、十四文字程度にそれを詰め込むのは至難の業だったのです。
しかし現在では短歌と俳句の位置は逆転しています。口語短歌に季語は不要で、形式的制約も言語的制約(文語体を使うといったこと)もありませんから、作家が〝この作品は短歌である〟と宣言しさえすれば(作家が短歌として作品を発表しさえすれば)、三十一文字程度の長さのあらゆる言語表現が短歌作品となり得ます。つまり俳句を詠むより口語短歌を詠む方が遙かに簡単になっています。
ただ従来短歌に科せられていた制約からはほぼ完全に自由にはなりましたが、口語短歌の表現内容は平板です。この編集後記でしばしば書いているように、俳句の世界は様々な問題を抱えていますが、少なくとも口語短歌よりも遙かに複雑で奥の深い文学的問題がそこにはあります。それをもたらしているのは〝俳句形式〟です。
口語短歌が作家による〝これは短歌である〟という宣言以外の表現基盤を持たない以上、その表現は自由詩に近接しています。しかし当然ですが自由詩になることはない。形式的制約を棄却しながら、あくまで〝短歌のような短い表現〟に留まっているからです。口語短歌が漠然とした文字数しか共通点を持っていない以上、その文学的基盤は脆弱です。作家が〝この作品は短歌である〟と宣言すれば一応は短歌ということになりますが、読者が〝なるほど短歌である〟と諾わなければ短歌文学として認知されないわけです。したがって口語短歌が短歌文学作品であるかどうかは、個々に検討する必要があります。
とはいえ短歌界で口語短歌を厳密に検証しようという動きはほとんどないようです。一世を風靡しているのだし、それによって俳句より圧倒的に少ない短歌人口が少しでも増えてくれればいいじゃないかというwelcomeムードの方が強い。いかにも短歌文学らしい気長なスタンスかもしれません。ただ今のところ口語短歌が短歌界以外の文学界でも支持され、他ジャンルの文学に影響を与えている気配はありません。口語短歌に〝賞味期限〟があるのかないのか、まったくわからないわけです(爆)。不肖・石川も口語短歌が短歌文学にどのような本質的影響を与えるのか予測できませんので、いましばらくこの運動を傍観していようと思いますですぅ。
■ 池田浩 文芸誌時評『No.010 群像 2014年06月号』 ■