鶴山裕司さんの『BOOKレビュー・詩書』『No.008 沈黙を聞く-志賀康句集『幺(いとがしら)』』をアップしましたぁ。志賀さんは俳句同人誌『LOTUS』の中心的作家です。『幺』は氏の第三句集になります。不肖・石川は存じ上げなかったのですが、いい俳人ですね。鶴山さんがコンテンツ冒頭で引用しておられる『秋物の水輪を飼い居る友ならん』は、印象に残る秀句だと思います。
詩壇では昔から、『同人誌はデビューへの足がかりか?』といった議論があります。俗な言葉で言い換えれば、同人誌で頭角を現し、商業詩誌に書くようになり、やがては小説文芸誌に書けるようになって、一般誌などでも活動できるようになればいいな、といふことであります。『?』に対して『そのとおり』と答えれば、メディアに主要な同人が吸収・昇格された時点で同人誌は解散です。『違う』と答えれば、商業メディアとは異なる同人誌のアイデンティティを確立しなければならない。しかし対等な立場で作家が集う同人誌ではそれはなかなか難しい。
サルトルの『飢えた子供の前で』と同様、テーゼは思考を活性化させるためのものですから、後は実際に同人誌をやっておられる方々に考えていただければと思います。ただ不肖・石川は、そもそもメディアに対して過度な期待をするのはどうかな、と思います。まだ若く未熟な作家が集った同人誌の場合、いっときであれ商業誌に憧れるのはモチベーションの一つになると思います。しかしそのようなレベルを突き抜けないと、結局は一般読書界では活躍できません。同人誌に書くのか商業誌に書くのかが問題なのではなく、本質的には必要に応じて一般読書界で通用する作品や文章を継続的に書けるようになることが重要です。
昨日の編集後記で商業詩誌と文芸誌の違いについて書きました。詩誌にいわゆる〝作家を育てる力〟がないことは今後も変わらないと思います。『話題の作品集』にせよ『今最もホットな議論』にせよ、詩誌がそれを仕掛けて成功した例はほとんどありません。すべて詩人次第なわけです。詩人は同人誌で切磋琢磨するにせよ一人で考え抜くにせよ、自力で優れた作家になっていかなければならない。ただ出版不況の影響で、文芸誌も多くの作家に事細かくアドバイスして作家を育てるのが難しくなりつつあります。これを不幸な状況と捉えるのかチャンスとみなすのかは皆さん次第です。
不肖・石川は、メディアと作家の関係は取引でいいと思います。現代の状況と作品との関係について考え抜き、〝これで行ける〟と確信を持てたなら、それを世界に向けて発信してみるべきだと思います。もちろんメディアや作家が期待した通りの結果が得られるとは限りません。しかし今までの方法と平行して新たな試みに乗り出さなければ、文学界は活路を見出せないでしょうね。文芸誌には作家を育てる力があり、実際そうしてきた実績がありますが、それでも限界はある。メディアは結局のところ作家次第です。優れた作家が出現しなければ何もできない。作家の〝確信〟が最も重要なのであり、文学金魚はそのような作家を探しているのでありますぅ。
■ 鶴山裕司 『BOOKレビュー・詩書』 『No.008 沈黙を聞く-志賀康句集『幺(いとがしら)』』 ■