『幺(いとがしら)』は志賀康氏の第三句集である。『幺』は見慣れない漢字だが、「後記」で志賀氏が、「「幺」は糸の先端の象形で、「かすか、ちいさい、くらい」のような意をあらわすと理解している。(中略)強い声を発する喉よりも、よく利く耳を持ちたい――そんな思いを深めつつある者として、「幺」なる一文字の気のようなものを、身のうちに感じてもいるのだ」と書いておられる。決して音韻効果を強く意識した句集ではないが、かすかなもの、移ろいやすい何事かに注がれる作家の視線が、自ずから言語的諧調を生み出している。
秋物の水輪を飼い居る友ならん 「Ⅳ 息差(いきざし)」
不思議な魅力に溢れた句だと思う。「水輪」を「すいりん」と読むか、「みなわ(みずわ)」と読むかでもちろん解釈は違ってくる。「すいりん」と読めばこの句には仏教思想が投影されていることになる。しかしそれはうがちすぎだろう。この句の「水輪」は、音数から言っても素直に「みなわ=水紋」だと捉えたい。水輪は同心円の孤を描く。極微の世界では音が鳴っているのだろうが、人間の耳には聞こえない。その無機物だが生あるもののように動く水輪を飼う友がいる。季節は生の盛りである春や夏、あるいは死の喩である冬であってはいけない。生の営みが止まってしまったかのような静かな秋がふさわしい。
梢よ一度は動かぬ前の風である 「Ⅲ 柿渋色(かきしぶいろ)」
最弱音は濡らして蛇(へみ)の喉仏 「Ⅳ 息差(いきざし)」
これ以上黙せば木菟の木とならん 「Ⅳ 息差(いきざし)」
動の前の一瞬の静を視線で捉え、聞こえぬ音に耳を澄まし、木となる寸前まで沈黙に耐える人の姿が描かれる。しかし志賀作品には無理にでも何事かを明らかにしようとする、性急な意志や焦りは一切表現されない。むしろ微細な動きに目を凝らし、かすかな音に耳を澄ます、修道者のような気配が漂っている。
鷹ひとつ全山鷹の雨となる 「Ⅰ 野菊抄(のぎくしょう)」
黄に咲いて黄の音とぼす暮の秋 「Ⅰ 野菊抄」
歌垣に真青を掲(あ)ぐるその歌垣に 「Ⅰ 野菊抄」
まだ何でもなく紐の真似事する紐か 「Ⅰ 野菊抄」
言わざりしことを返しあう山と海 「Ⅳ 息差(いきざし)」
身のうちで大きく移す水がある 「Ⅳ 息差(いきざし)」
『幺』には印象に残る撞着表現の句がいくつもある。「鷹ひとつ全山鷹の雨となる」、「黄に咲いて黄の音とぼす暮の秋」はこの詩人が無から言葉を紡ぎ出していることを示唆している。何もなかった世界に一羽の鷹が現れ、世界にはまだ鷹しか存在していないがゆえに「全山鷹の雨となる」のである。「黄に咲いて」の句も同様である。現実の花は色と香りを伝えるが、この花は世界を照らし出すように「黄の音」を「とぼす」(灯す)。それは「黄」という言葉によってしか表現(創世)できない言語世界である。
「言わざりしことを返しあう山と海」、「身のうちで大きく移す水がある」は句集末尾に置かれた句だが、高度に抽象化された撞着表現である。詩人の中ではなにかが谺し、重く深い水が移動し続けている。もっとはっきり表現してほしいと苛立つ読者もいるだろうが、詩人は沈黙の前で立ち止まり、ギリギリの言葉を紡ぎ出している。それによって言語的な調和世界を得ている。奇妙かもしれないが無と沈黙が志賀康という作家の表現基盤なのである。
開闢のありやなしやと茨(ばら)を嗅ぐ 「Ⅰ 野菊抄」
海と言う他の言葉で表さば 「Ⅱ 風卵(ふうらん)」
旅に死して風を殴る樹となられしか 「Ⅱ 風卵(ふうらん)」
極というもの鮟鱇のように恐れなん 「Ⅲ 柿渋色(かきしぶいろ)」
鳶よ頭で空の丸きを図りたる 「Ⅲ 柿渋色(かきしぶいろ)」
蟬殻に先(せん)の充満ありとなん 「Ⅲ 柿渋色(かきしぶいろ)」
志賀氏の作品には特定の言葉や観念に対する執着が一切見られない。「極」は「鮟鱇」のように捉えがたいものだという諦念に近い静観がある。しかしだからこそ「鳶よ頭で空の丸きを図りたる」のような調和的空虚を表現し得る。「蟬殻」の中に「充満」するのは、存在以前あるいは以後の「先(せん)」なのだ。
この詩人はもっと言葉をそぎ落としてもいいのかもしれない。もちろん作品を創作できなくなるという危険はある。しかしそこから言葉が溢れ出すこともある。志賀氏の作品世界は安定しているように見えるが、本質的には危うい均衡の上に成立している。
甥生れて語り伝えん大愚伝 「Ⅱ 風卵(ふうらん)」
この句は志賀氏による、一種の述志の句だと読み解いていいと思う。東洋的思想世界では「大愚」はもちろん「大賢」に反転する。無と沈黙を表現基盤とする俳句伝統の歴史は長い。それを継承できるのは、高い志を持った一握りの前衛系の俳句作家だけである。
鶴山裕司
*志賀康句集『幺(いとがしら)』については以下までお問い合わせください。
邑書林(ゆうしょりん)
〒385-0007 長野県佐久市新子田915-1
Tel 0267-66-1681
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■