絵本のひとつの理想型を示していると思う。テキストとイラストの関係が補完的であるべきなのか、相反的であるべきなのか、といった議論はきりもない。全体性だ、としか言いようはなくて、しかしどんな絵本にも、たいていは全体性を壊す何らかの要素が入っている。
全体性を最も見事に具現しているのは、詩画集と呼ばれる書物だ。これもまた、傑作はなかなかないものだが、後世にも残るような全体性そのものを目指した作品は、実用目的がどこかにひそんでいる子供向け絵本にはない完成を理想とする。
そうなのだ。絵本にはたいてい、何らかの実用目的がある。図鑑であったり地図であったり、子供を喜ばせるというのも目的のひとつだ。ただ美しい、ということに、もしかして人は耐えられないのだろうか。
『夕闇の川のざくろ』は少なくとも、子供向け絵本ではない。だから、そのぶん純粋に美しい。と言うよりも、「美しさ」そのものについての本でもある。
美しい女性、しおんは「私」の幼馴染みである。台所に立ち、シチューを煮ながら話を紡ぐ。しおんはいじめられた、と言う。醜かったから。嘘つきだったから。恋人は話すたびに違い、本当のことなどない。「人なんてもともとほんとじゃないのよ」と言うからには、「しおん」も「私」も本当ではない。それはもちろん『夕闇の川のざくろ』の登場人物なのだ、と思えば、単なるメタフィクションということになってしまう。
「私」が、語るために措定された「視点」に過ぎないとして、「ほんとじゃない」= 存在しない「しおん」は、何を示しているだろう。その属性は嘘つきで美しい。徹底した嘘がほんとのことになるのなら、美しさはしおんの言葉「醜かったから」によってさらに冷たく際立つ。
人を孤独にする醜さとは、美しさのことかもしれない。私たちが日常、醜いと感じる人の有り様とは、孤独に耐えられず、似た者同士でつるんでいる姿だ。もたれ合う安心感を愛と呼びたがる、その愚かしさだ。低いところで暮らしている彼らは、互いに頭ひとつでも抜きん出ることはない。ないことが互いの相互保障だ。どんな形であれ、高い位置にあるものを醜いと呼び、それは美しいと同義である。
だから、しおんは孤独であり、孤独であることが美しいことと同義である。しおんの恋人はいったい誰かわからず、しおんの孤独は失われない。しおんは「孤独」それそのものであり、ならばその恋人とは「不可能な愛」そのものだ。
守屋恵子の絵は、この何のためでもない、孤独そのもののテキストに寄り添わず、背きもせず、やはり孤独そのものの佇まいである。描かれた事物は、豊かであって寂しく存在する。しおんと思しき(あるいは、しおんでもある「私」と思しき)少女は鋭角で孤独で、醜く美しい。美しさが存在の孤独そのものならば、孤独とは意識の清明そのものだ。その前に、あらゆる言葉には「ほんと」の意味などない。「夕闇の川のざくろ」といった言葉と同様に。
金井純
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■