飽かず眺めながら、「中心とは何か」について考えることになる。あるいは「存在するテキスト」について。それは目眩がするものだし、幸福なものでもある。テキストの中にいる、と感じるときの満ち足りた、平らかなものは何なのだろう。
たとえばそれは『メアリーポピンズ』という映画で、画面の中に飛び込んでしまった感覚と似ているかもしれない。あるいは『不思議の国のアリス』で、「かばん語」がそのままの姿で現前するイラストを見たときのような。これらは英語圏の映像であり、テキストである。それが日本語で起きる、それも SFX もフィクショナルな設えもなく、ただそれが現前する証しである写真と説明文のみで。
「御所の正門であり、もとは天皇の出入りだけに開門が限られた『開かずの門』」であった建礼門、御所の正殿であり、もっとも南に位置するため南殿(なでん)とも呼ばれる紫宸殿。天皇の日常御殿であり、東面して中殿とも呼ばれる、かの有名な清涼殿。これらの固有名詞を目にするだけで、我々は過去のアーカイブであるテキストと現実とのあわいに立つ。
古さや伝統といったものを畏怖するのではない。たとえ昨日、新しく建て替えられたものであっても、それがそこに唯一のものとしてあることが驚きなのだ。それは現実化したテキストそのものだ。飛び出す絵本の飛び出してきた絵のように、飛び出してきたテキストである。
「聴雪」のページに、「美しい名の茶室ではないか」とある。「数寄屋造り、屋根は柿葺き。三間からなり、西に四畳半の茶室、北に三畳の水屋。庭に迫り出した床の下を遣り水がくぐって流れる」。気がつくことは、美しいのは茶室の名ではなく、日本語そのものだということだ。その日本語が日本を作っている。まさしくロラン・バルトの言う記号の帝国に我々は生きていて、なおかつそれは現実に存在もしている。それほどの幸福があるだろうか。
その幸福の中で、我々はまさしく「雪を聴く」。それは雪の降る音に耳を傾けるという行為ではなく、「聴雪」という美しい言葉の音を感じるということだ。そしてその言葉が茶室を象徴するのではなく、それを感じる感性が茶室をそのようにあらしめようとしているということである。
記号の中に生きることが幸福なのは、そのすべてが中心そのものだからだ。夾雑物はなく、透明である。それ以上のものはなく、ただそこにあり続ければよい。すなわちそれは空虚であるとも見える。空虚でありながら満ち足りているものこそが、「日本」なるものの中心である。ならばそれは私たちの精神の理想でもあるはずだ。私たちは空虚でありながら、満ち足りようとする。
日本なるものの中心が実在し、しかも空虚であることによって、我々の意識と無意識はそこに集まり、留まって、なおかつ満ち足りることができる。それは我々が日本人であることの証左ではない。我々がまさしく「日本語で出来ている」ことの証左なのだ。
金井純
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■