裕福な港町の酒田と城下町の鶴岡に、雛人形を訪ねる。それは豊かで楽しく、羨ましいような道行きである。その土地土地の歴史、風習を振り返るものであるのはもちろんなのだが、やはり学問とは違う、何らかの美意識がはたらき、別の世界がもたらされるものでもあるからだろう。
目次を見れば、「◯◯家のお雛さま」が並んでいる。お雛さまは、◯◯ちゃんの、ではなく、◯◯家のものなわけである。しかし「◯◯家のお正月」とは、やはり少し趣が異なる。家の格式を示し、生活に根ざして、「必ずそのように執り行わなくてはならない習わし」というのよりは、やや軽い。もちろんそのように執り行うのだが、それはその方がよくて、楽しいからである。そうであってもらいたい。
そこには私たちとは別の存在、お雛さまたちがいる。彼らの好み、望みを慮ることは、私たちをも生活から離れた世界に誘う。それは一瞬で、儚いものかもしれないが、あるとないとではまったく違う。
もしかすると、「節句を過ぎて雛壇を出したままにしてはならない」と諫められるのは、その世界を儚い夢と思い切らなくてはならない、ということなのかもしれない。女の子がお嫁に行くということは、現実的な苦労をしにゆくということだ。美しいお雛さまたちといつまでも一緒にいたがるようでは、縁遠くなる、と。
お嫁に行った先が良家であっても、いや良家であればあるほど、「◯◯家のお正月」の大変な準備に追われることになろう。実際、毎年の「家庭画報」の正月号など見ていると、各地の名家は一年中、正月準備をしているのではないか、と思うぐらいだ。衣食住のすべてを新年に向けて一新するというのは、いわば生活そのものの引っ越しをしょっちゅうしているようなものだ。
雛壇は出すも仕舞うも、人形の家である。正月準備に比べれば、ひどく容易い。そして「小さい」= 雛 ということには、相対的なサイズの問題や労力の低減だけでなく、何かを本質的に変えるものがある。それは生活を離れ、私たち自身への距離感をもたらす。小さいということはそれ自体、美しいということだ。その美しさの感覚は、私たち自身への距離感から生まれるに違いあるまい。
遠近法からすれば、小さいということは、遠くにあるということだ。お内裏さまとお雛さまなら平安の昔にあり、日本文化成立のときの文字通りの雛型である。ひな祭りの発生は江戸期で、つまり当初から遠い過去への距離感を有していた。変わり雛もまた、それぞれの遠い子供時代へと誘う。遠くにあることで、それは私たちの過去から私たち自身と生活を捨象し、私たちの過去を美しいものとする。あるいは様々なお道具の可愛らしさから、小さくするということそのものがすべてを美しくするのだと気づく。
小さくされた雛たちは、私たちの生活の苦しみと悲しみ、退屈、病いなどを背負ってくれるという。流し雛はときに雄々しく、流れ去ってゆく瞬間、私たちより大きなものの存在を思い知らせるのだ。
金井純
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■