池田浩さんの文芸誌時評 『No.016 すばる 2014年04月号』をアップしましたぁ。小林エリカさんの『マダム・キュリーと朝食を』を取り上げておられます。ほんで池田さんの批評、なかなか手厳しい。『そこには二つのもの、「放射能」と「猫」が出てくる。「光を通して過去を生きる」という猫と、その猫を待つ少女。それら生き物たちと放射能の物語である。「放射能」とは現在の純文学用語で「現代」の喩ということになっている』、『現在、文学において(も)追認されたと思しき現代的なジャーゴンを連想で繋ぐことで、擬似的パラダイムを瞬間的に出現させようという試みは、果たしてどれほど意識的に行なわれているものなのだろうか』と書いておられます。
不肖・石川、池田さんのおっしゃること、だいたいわかります。3.11以降、放射能を題材にする小説が激増しました。石川が読んだ範囲では大衆文学の方がレベルが高い。事実に基づく具体的な人間の苦悩を描いているからです。しかし純文学は多かれ少なかれ問題を喩として捉えようとする。でも喩として捉えるためには、それを相対化し得るような高次の思想が必要です。しかし純文学作家はそのような思想を持ち合わせていない。そのため作品が呆れるほど空疎化してしまう。近代文学の初源の喩である漱石的「猫」、キュリー夫人、ホリー・ゴライトリーという文明的野蛮人が主人公の「ティファニーで朝食を」を並べて、何が表現できるのかといふ池田さんの批判はもっともだと思います。
不肖・石川が読んでいても、文学金魚の批評はけっこう厳しいと思います。でも文学の世界ではそれが普通だったんじゃないでしょうか。文芸誌に掲載される文芸批評を読んでいても、作品を真摯に読解して文学を探ろうとしている批評家は少ない。作品読解にかこつけて、自己の思想――それもかなり怪しげな――を主張しようとしている批評がほとんどです。作品も同じ。ほとんどの作家は、自分の作品以外に興味を持っていないことが手に取るようにわかります。このような状況で、僕が、わたしが発表した作品こそが素晴らしいと主張し合っていても埒があかない。
文学は実ビジネスに比べればうんとぬるい世界です。虚業と言っていい。実ビジネス界で勝負をかけて失敗すれば、最悪の場合、首をくくらなければならないような状況に陥ってしまう。文学の失敗など、せいぜい新人賞に落選したとか、編集部に原稿を蹴られたとかであり、一週間も寝たら忘れてしまえる類のものです。
しかしだからこそ文学の世界では、作家の掛け金は高ければ高いほどいいのです。この掛け金は目には見えませんし、世界で流通するそれとも違いますが、命がけで掛け金を積む覚悟がある作家が出現しなければ今の文学状況は改善されないと思います。傷口を舐め合うような批評が多過ぎます。おざなりであっても、作家は誉められることがそんなに嬉しいのかしらん。それでは文芸サークルの合評レベルですよん。
■ 池田浩さんの文芸誌時評 『No.016 すばる 2014年04月号』 ■