ラモーナ・ツァラヌさんの『青い目で観る日本伝統芸能』『No.007 新作狂言の可能性を考える―大蔵流茂山狂言 笑いの座「the狂言」』をアップしましたぁ。大蔵流狂言師・茂山あきらさんの劇団の舞台で、古典作品の『棒縛り』と『柿山伏』、それに新作狂言の『ラーメン忠臣蔵~メンマの逆襲~』が上演されたやうです。ラモーナさんが今回の劇評のメインとされているのは、もちろん新作狂言『ラーメン忠臣蔵』です。
ラモーナさんは『面白さはあるものの、狂言よりも子ども向けのコントの味わいの方が強い。狂言の根本的な姿勢は人間同士の間に色々な差を押し付ける社会に対しての笑いであり、遊びなのだが、それはあくまで大人の遊びなのだ』と書いておられます。やや厳しい批評ですが、不肖・石川なども、お能や狂言、歌舞伎、あるいは落語などで新作を見た時に、しばしばラモーナさんと同じような感想を抱きます。簡単に言えば、古典芸能であることの意味はどこにあるのか、といふことですね。
古典芸能には一定の型があります。これを忠実に守っている限り古典作品の上演は安泰です。問題は新作です。新作の場合、劇の構成や身体の動かし方の〝型〟だけではなく、その型が何によって成立しているのかが問われます。作家・演者の古典芸能に対する理解の深さが問題になるわけです。またこの理解の深さが〝型〟の基盤です。古典芸能から遊離していると観客が感じた場合、古典的な型を使っていてもそれは形骸化しています。しかし新しいけれど、そこには確かに古典芸能が息づいていると感じる時にはある型が存在しています。そしてこの型は、従来の古典芸能のそれでなくてもかまわないわけです。
ラモーナさんは『狂言は狂言であることをはっきりと見せなければならないので、狂言の真髄とその形を信じて、新作狂言に挑戦する方がよいのだ』と書いておられますが、石川も同感です。問題は〝神髄〟とは何かといふことです。お能や狂言、文学では詩などが大衆から熱狂的に支持されることはまずないと思います。それでもこの芸術に邁進するならば、大衆化ではなく、神髄を一人でも多くの方に理解してもらうよう努力すべきだろうと思います。それが日本文化の神髄であるなら、たとえ少数でもそれを受容した人の中から、優れた日本文化の理解者、優れた芸術家が生まれてくるだろうと思います。
■ ラモーナ・ツァラヌ 『青い目で観る日本伝統芸能』『No.007 新作狂言の可能性を考える―大蔵流茂山狂言 笑いの座「the狂言」』 ■