谷輪洋一さんの文芸誌時評『No.008 群像 2014年04月号』をアップしましたぁ。笙野頼子(しょうのよりこ)さんの『未闘病記――膠原病、「混合性結合組織病」の』(前編)を取り上げておられます。笙野さんについてはすでに様々な批評が書かれていて、ウィキペディアを読んでも『女だと思ってナメてんじゃねーのか』的な事が書かれています。しかし石川にはとんと理解できません。現代日本を代表する素晴らしい純文学作家のお一人です。
谷輪さんは『圧力のかかった文章は、私小説とは何か、あるいは病と私小説について、あらためて考える機会を与える』、『文学はぎりぎりまで死に接近した生において、自らが知り得る自らについて、すべてを書き尽くそうとするものだ。少なくとも本来的にはそういうものであるはずで、その自らが知り得る自らとは、自身の内面にほかならない。自身の肉体ですら、自分にとって不可知なのだ。病はそれを如実に示す』と書いておられます。笙野さんの『未闘病記』については、今のところこれ以上の読解はないでしょうね。
純文学、あるいは文学の本質をなんとか掴み取ろうとする試みは、現在、非常に苦しい闘いを強いられています。確かに多くの純文学作家が、明らかな駄作を含めた作品試行を重ねています。しかしそれを批判する時には、まず自分の立場をはっきりさせなければならない。谷輪さんが書いておられるように、『肉体のない思考に魅力はなく、自ら無限であると勘違いする優秀さは存在しない』のです。作家たちの心にまで届き、相互影響によって文学を一歩でも前に進める批評・批判は、現在の文学の苦しさを共有することからしか生まれません。
いわゆる文芸批評と呼ばれる小説評論はほとんど読まれていません。需要もあまりない。今の純文学をくだらないと批判するのは簡単です。しかし不肖・石川は文芸批評家の質は純文学作家よりも低いと思います。柄谷行人さんのポスト・モダニズム批評以降、文芸批評家は小説作品をダシにして自己主張するのが文芸批評だと勘違いしてるんぢゃなかろか。それなら他人の作品を批判して偉そうなフリをするのではなく、独自の思想論、あるいはこれだという小説の秀作をさらっと自分でを書いてみそ、と石川は思うのでありますぅ。
■ 谷輪洋一 文芸誌時評『No.008 群像 2014年04月号』 ■