とんねるずのみなさんのおかげでした
フジテレビ
木曜 21:00~
超人気コーナー「新・食わず嫌い王決定戦」を擁する番組、と言った方が通りがよいかもしれない。そのぐらい知れ渡ったコーナーで、今や「食わず嫌い」だけで通じる。自分だったら、何かなあ、と一度は考えた人が多いのではないか。
食べ物の好き嫌いが、ちょっと面白いのは、理由がないからだと思う。そのくせ理由を訊くと、これでもかと必死で説明する。あるいはもう、理解されないものと諦念の面持ちで、それでも一応は申し開きをするものである。番組だから説明の義務があるわけだが、普段から誰でもそうなので、その素のところが見えるのが人気の秘密だろう。
人はなぜ、ある食べ物を嫌いな理由を表現力を駆使して語るのか。そこでの言語化の試みは、コミュニケーションの可能性と不可能性を考える意味でも、なかなか興味深い。つまり説明する側は、最も原初的な感覚の共有を試み、その可能性を信じている。しかしその言語化が緻密に、微細に行われれば行われるほど、それは拒絶の憂き目にあう。説明されたテキストの否定に留まらず、感覚の否定に繋がるとしたら、時と場合によっては感性から人格への疑いに発展する可能性すらある。「このシャキシャキした歯ごたえを、『味がなくて無駄に顎を動かしている気がする』などとのたまう奴は信用できない」と。
だから、こんな虚しい必死の説明はないのだが、それでも人は自らの「食べられない」理由付けを言語化しようとする。そこにあるのはやはり、罪悪感ではなかろうか。
「美味しい」と言い合うことは共感の基本だ。皆が食べているものを食べられる、ということは社会に迎え入れられる切符を持っているということだ。そこから、嫌いなものを食べられるふり、さらに大好きだという演技をする、というこのコーナーのゲームが始まる。
嫌いなものを見破られるパターンはいくつかある。涙目になるとか、喉を通らないで水をやたら飲むというのは身体反応で、アレルギーに近いものがあるのかもしれないから、無理しない方がいいかもしれない。あとは説明過多。その食べ物についての思い出や蘊蓄を語っちゃったりすると、準備してきたのが覗く。それに食べ過ぎ。たくさん口に運ぶのも怪しまれる。その努力はゲームに勝つためということになっているが、社会の落伍者になるまいとして、嫌いなことを隠しているかのように錯覚される。ゲーマーは有名人なので、そこが面白い。
その人のアキレス腱である苦手なものが、何の理由付けも虚しく、その場に晒されてしまう。好きな食べ物を、というよりもラディカルに、その人の素を見た、理解したように感じるのは当然だ。嫌いな理由は理解できなくても、苦手なものに怖気を振るう気分だけは共有できる。
「食わず嫌い」とは本来、食べずに嫌いだと思い込み、食べてみたらイケた、という謂である。ここでは「好きだと言って食う」のだから、その逆だ。もちろん、ゲームでの無理なガンバリを通して、あるいは「あ、結構、だいじょうぶじゃん」という展開になれば、食わず嫌いだったということになる。そういう出演者も何人かいて、番組的にはひどくつまんなくなってしまったけれど。
田山了一
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