池田浩さんの文芸誌時評『No.012 小説 野性時代 第121号 (2013年12月号)』をアップしましたぁ。『作家特集 山田風太郎 奇想天外の源』が組まれています。特集に寄せたエッセイで、森村誠一さんが、山田風太郎作品はドラマや映画などに映像化しにくいといった意味のことをおっしゃっています。考えさせられる指摘ですねぇ。
最近のドラマ・映画では、マンガが原作になることが多くなっています。どちらも映像+言葉の芸術ですから、相性が良いのだと思います。小説では意外と時代小説が映像化しやすいようです。明治維新以降の近現代小説は、簡単に言えば自我意識小説です。人間の自我意識を描くことに主眼が置かれている。しかし時代小説では事件とそこでの人間関係が主役なのであり、個の自我意識表現は抑制されます。それが映像化しやすい理由になっているのではないかと思います。
でも山田風太郎さんは時代小説を数多く書いておられます。にも関わらず映像化しにくい。その理由を池田さんは『山田風太郎は、その生い立ちや戦争体験から独特の虚無を抱え、それが「風」太郎の名となってもいる。つまりは戦後作家の一人である。数多くの奇想天外な発想は、何一つ信じない、つまりは何にもとらわれない虚無感からもたらされている』と考察されています。
通常の時代小説は事件によって人間が動き、それに付随して必要最少限度の人間心理が描写されます。時にはマンガの台詞と変わらないような短く凝縮された人間心理が言語化される。しかし風太郎さんの小説ではあまりにも極端な事件が起こります。時代小説なのに、その枠組み(掟)を壊してしまうようなところまで行ってしまう。この欲望の背景に、風太郎さんの〝虚無感〟があったのではないかという池田さんの指摘は正しいと思います。その意味で大衆作家でありながら、純文学的要素を持った作家さんだっですねぇ。
■ 池田浩 文芸誌時評『No.012 小説 野性時代 第122号 (2013年12月号)』 ■