はとのレースについて、ごく丁寧に書かれている。今となってはマイナーな趣味だが、子供にとってはメジャーもマイナーも無関係だ。そこから何を掬いだすかは子供次第で、無限に可能性がある。さらに身近な動物に詳しくなることは、見かけ以上の豊かさをもたらすことがある。
そして、そういった「豊かさ」を求めなくてはならないときというのは、それだけの事情がある場合が多い。『はとの神様』はそのそれぞれの事情を、子供向けとしては比較的、呵責なく書かれている。すなわち読ませてもまるで時間の無駄、ということにはなるまい。
はとのレースに関わっているすべての登場人物は、大人も子供もそれぞれに苦しい自らの事情、多くは家庭の事情を抱えていて、それら人間の生活のたいへんな側面が、レース鳩にのめり込み、鳩の生態に詳しくなってゆくことで解消されたり、されなかったりという形で示されている。子供であった主人公たちが当時抱えていた重荷が、大人になっても姿を変えて引きずっているというあたりは、単純な成長物語に堕していないリアリティがある。
この、主人公たちの成長を押しとどめているのは、「はと」である気がする。彼らが大人になっても、世代交代した鳩は以前と同じ鳩のままだ。人間は特別な社会性を持ち、人間として成長し、神に祝福された有意義な人生をおくるべきものと思い込まされているけれど、実際のところは鳩同様の無力な動物に過ぎないかもしれない。
といったことがしかし、さほど確信的に描かれているわけではなくて、そこが物足りなさにも通じるが、「人間は所詮、鳩と同じ」では、中学受験ニーズに応えるような子供向けにはならないかもしれない。そのようなマーケティングだけで書かれている作品では無論、ないのだが。
より向上的、好日的に逆転させて読めば、千キロの距離をひたむきに帰ってくる鳩のように人間も一生懸命なものだし、それでも猛禽に襲われたり力尽きたりする鳩のように人間もまた無力なものだが、それでもそのときどきに必死で強くなろう、成長しようとしているのだ、ということか。そのテーマをいかにも児童文学チックに押し付けないところがむしろ佳作である、といえる。
その佳作に、やはりあえて注文を出すなら、なぜ鳩なのか、というところが、今ひとつ響いてこない、というところだ。人生のあり様を何か別のものに重ね合わせて構造を作る、というのは小説作法としてわかりやすいものではあるが、それが鳩のレースなら鳩のレースである必然性が腑に落ちるかたちで示されていれば、と思う。鳩の生態やその愛らしさが詳しく描写されていても、必ずしも納得には繋がらない。本質的に、車のレースや犬のコンテストや、子供クイズ大会であってはならない理由はどこにあるのか、と思わせてはならないのだ。
この作品の場合には、おそらくキーワードは「千キロの距離をひたむきに、命がけで」というところだろう。そこに感動して書かれたということは理解できるが、読者にも同様の感動を与えるには、その「ひたむきに、命がけで」が鳩だけでなく、登場人物においても同じ強度で行われる必要があると思う。
金井純
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