かわいい子には旅をさせて、そこでの成長を確認するというビルディングス・ロマンである。その点では言うことがない。言うことなしの成長物語でもあるかもしれないが、成長ということにおいて別に言うことはない、という感じもする。
子供の本をとりあげる欄で、こう言ってはあんまりかもしれないが、そもそも成長したりさせたりということって、そんなに重要なんだろうか。何かについて経験を積んで習熟する、ということはあるだろう。人間関係が伴う技術なら、ついでに社会性も身につく、ということもあるかもしれない。が、しかしそれを「人間的な成長」などと絶対的な価値を得たかのように評価して、ちやほやしていいものか。
こんなヒネクレたことを書いてしまったのも、この「冒険」という魅惑的な言葉に引っかかってしまったからに他ならない。冒険 = かわいい子の旅 = 成長 と、何の矛盾もなく結びつくのが、結びつき過ぎて鼻につく、ということはないか。
そもそも「旅をする」ということと「旅をさせる」ということは、天と地ほど違うことではないのか。旅をさせたり成長させたり、というのはそれこそ中学受験の願書に書くため、親の覚悟のほどを示します、みたいなものだろう。それはそれで立派だが、その成長とはおおかた親の期待する、大人にとって理解可能なレベルの変化の域を出るまい。そこから出来るのは、せいぜい親のレベルの人間のコピーだ。
小説などにして意味があるような「旅」とは、止むに止まれず始まってしまうものなのではないか。親を説得し、許可を得るところからすでに旅は始まっている、というのは、間違っているとは言わない。が、それは親が許可し、期待するような「旅」であって、読者が期待する「旅」ではない。
『自転車冒険記』では、子供が自転車で九州に向かう。それはそれで大変なことだし、親がサポートカーに乗っているのはリアリティがあるということだろう。が、そこでの「冒険」の主眼が、サポートカーの親が理由もなく警察に捕まってしまったり、大事な移動手段そのものであるマウンテンバイクを盗まれ、それを取り返したりという「人間関係」がらみであるのは、冒険的な印象を与えない。家でじっとしていたって、そのぐらいの社会的事件は起こる。母親、警察、やんちゃな連中と、思い通りにならない他人との関わり合いと問題の解決が「冒険」ならば、自転車で九州に行く必要はない。
『自転車冒険記』の特徴としては、ネットから生まれたシリーズだ、ということである。主人公の北斗も、こっそりブログを立ち上げているという設定で、そのブログから、また Twitter から情報が流れ、日本中どこにいても人と繋がる。今の子供にとってネットが一つの「冒険」の場であることを否定はしないが、命がけの大冒険の果て、切り立つ断崖を越えた山頂に Twitter メッセージが届いたら嬉しいんだろうか。ビルディングスの定義はそれぞれの都合であっても、ロマンは孤独にしかない、と思うのは古いのか。
金井純
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■