水野翼さんの文芸誌時評 『No.012 S-Fマガジン 2014年01月号』 をアップしましたぁ。『《グイン・サーガ》正篇刊行再開記念小特集』を取り上げておられます。『グイン・サーガ』は2009年にお亡くなりになった栗本薫さんの長篇ファンタジー小説です。正伝130巻、外伝21巻まで刊行されましたが、栗本さんの死去によって未完となりました。その続篇131巻『パロの暗黒』が五代ゆうさん、132巻『サイロンの挽歌』が宵野ゆめさんによって書き継がれ刊行されました。
明治の昔は今ほど作家のオリジナリティを重視していなかったので、尾崎紅葉の『金色夜叉』は作者の死で中断されましたが、硯友社門下の小栗風葉が続編を書き継ぎました。超マイナー作家ですが、樋口二葉といふ女流作家もいたなぁ。明治時代には俳句と同様、座の文学といふ概念がまだあったわけです。共同で作品を書くことにあまり抵抗はなかった。しかし『グイン・サーガ』続編刊行は、最近の出版界ではあまり例のない試みです。
水野さんは『SF はそれ自体、自己言及的に、フィクションを紡ぎ出す人間の思考のあり方を問うてきた。作品自体をさまざまな実験にさらす科学もまた、SF のものであったのだ。それは純文学としての実験小説と異なり、常に(メタファーや擬似的・暫定的なものだとしても)「根拠」を明確にしようという姿勢が窺えた』と書いておられます。そのとおりでしょうねぇ。もちろんこれは、純文学系作家・作品からのSFの捉え方です。
不肖・石川、けっこう『グイン・サーガ』を読みました。うろ覚えですが60巻くらいまで読んだんぢゃないかなぁ。すんごい面白いのですが、はっきり言えば通俗小説です。途中から明らかな物語の引き延ばしが始まる。物語の進行、遅いなぁと感じながら、読者はジリジリしながら次の本の刊行を待つというタイプの作品です。作家にしても、どうしても完結させたい物語ではなく、途中から終わるに終われなくなった作品といふ気がします。
水野さんは『「グイン・サーガ」は著者を失い、システムとして動き出した瞬間、紛れもない SF になったのだ』と書いておられますが、これは反語でしょうね。現代というオリジナリティ重視の文学世界において、不特定多数の作家によって物語が書き継がれることの意味を見出そうとすればそういう評価になる。もちろんそこには人気作品を延命させたいといふ経済原理が一番大きく作用しているわけです。
■ 水野翼 文芸誌時評『No.012 S-Fマガジン 2014年01月号』 ■