あの「グイン・サーガ」の正篇刊行が再開されたという。その記念小特集が組まれている。
著者が亡くなり、それでも物語は引き続いて、五代ゆう『パロの暗黒』(131巻)と、宵野ゆめ『サイロンの挽歌』(132巻)が出た。ちょっと驚くやら、しかし前例のないことでもなく、当たり前だと思うやらで感慨深い。
この感慨はどこから湧いてくるかと言えば、「グイン・サーガ」がいかに壮大な物語かを思い返すことから、ということではない気がする。無論、壮大な物語であり、一つの大きな世界を形作っているからこそ、他の者がその世界を引き継ぎ、展開させることも可能なのだ。そこにあるのはすでに、引き継ぐこと、終焉を遅延させること、その試みの価値でしかないはずではあろうが。
言ってみればそれは、システムがきちんと自律的に稼動していることを確認する、運用テストのようなものに過ぎないかもしれない。確認が済めば、テストは終了し、システムは完結することができる。なぜなら、あとは読者それぞれの内で自在に、また多様に展開することが可能であると、読者一人々々が納得する日が訪れることが証明されるからだ。
そのようなテスト運用を目の当たりとして、我々はいかに普段、“ オリジナリティの神話 ” に捉えられているか、ということを、感慨深く思い知らされるのだ。
このところ心ある創作者の関心は、SF と呼ばれるジャンルに向かっているように思えるが、それはSF 小説がやたら売れているとか、SF 作家が大いに脚光を浴びているといったことではない。また以前から、いわゆる純文学作家が SF 小説に発想の源を求めるといったことはあったが、それは結局のところ、戦後が遠くなってテーマを失った純文学作家たちのその場しのぎという以上のものではなかった。
現在、SF に対する創作者の知性の向かうところは、SF = 科学小説のそれではもちろんなくて、SF = 小説を科学するということではないだろうか。現にこの「グイン・サーガ」には、そして多くのファンタジー小説にも、科学小説的な要素はない。それがSF にジャンル分けされることに、我々がさほど異和感を覚えなくなっているのは、分類のいいかげんさに慣れたというより、箱に付いた名札の読み方の方が変わってきた、ということではないか。
しかしそれは恣意的に、ご都合主義的に変容したわけでは必ずしもない。科学小説、文明批判であった昔から、SF はそれ自体、自己言及的に、フィクションを紡ぎ出す人間の思考のあり方を問うてきた。作品自体をさまざまな実験にさらす科学もまた、SF のものであったのだ。それは純文学としての実験小説と異なり、常に(メタファーや擬似的・暫定的なものだとしても)「根拠」を明確にしようという姿勢が窺えた。
「グイン・サーガ」は著者を失い、システムとして動き出した瞬間、紛れもない SF になったのだ。
水野翼
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■