りょんさんの詩誌時評 『 No.010 現代詩手帖 2013 年 12 月号』 をアップしましたぁ。詩のコンテンツを三日連続でアップです。文学金魚は詩誌ではないので今日でひとまず終わりですけんど。ほんでりょんさんは、石川のブログの文体を真似といふか揶揄されておりますな。まったくイジワルなんだからぁ。いけずぅ~ (爆)。
りょんさんは 『 「何処」、「ゼロ」、「喪失」、「分断」、「無数」、「霧散」、「とは誰か」、「断絶」 とか、こういう言葉を禁句にしてさ、こーゆーのなしでタイトル付けるのを義務化してみたらどーかな、いっかい。何を言いたいのか、少しははっきりするかもよ』 と書いておられますが石川も賛成です。現代詩手帖カルチャーにどっぷり染まっておられる詩人は気づいていないでしょうが、これらは明らかなジャーゴンです。外の世界では通用しない。
小説文芸誌ではどんなテーマでも 2、30 枚の評論で書き尽くせると考えるのが普通です。つまりあなたの核心的思考を端的に表現してくださいと求められる。本題に関係のないおしゃべりは間違いなくカットされます。文芸誌では、まず作家の一番大事な思考エッセンスを提示しなければならない。さらにその先へと書き続けられる者だけが生き残れるわけです。でもりょんさんがあげたタームは結論を先延ばしにする状況論特有のものです。どこに向かっているのかを明確に書くこと、ゼロではなく出発すること、喪失ではなく今何を得るべきなのかを書くのが評論というものです。
ほんで石川も 『現代詩手帖年鑑2014』 を読みましたが、ぶ厚くて労力がかかっているわりにはインパクトのない仕上がりだと思います。なんか引っかかって、図書館で 『年鑑』 をでランダムに数冊借りたのですが、どれも同じ構成でした。こりは驚いたな。現代詩の業界って、十年一日 (もっとかな) でいられるほど安泰じゃないでせう。違いといえば、今では詩の業界以外でも活躍している詩人がほとんどいなくなり、業界内でそれなりに名前が知れている (?) 詩人ばかりになったくらいですね。
不肖・石川は編集者ですから、誰もが公正と認めるようなメディアなど存在しないことを知っています。『年鑑』 の詩のアンソロジーには、昨年思潮社さんから自費出版した詩人たちの作品が数多く掲載されているやうです。なんら問題ないですが、アンソロジーを組むにしても、編集部選の 50 篇、5 人くらいの詩人による詞華集、昨年賞を受賞した優れた詩集のアンソロジーを数本掲載するなどの工夫はできないものでせうかね。誰が選んだのか明確にすれば、アンソロジーといえども方向性が見えてきます。そこに思潮社さん刊行以外の詩集を適度にまぎれこませれば、なんやかんやいって公正な詩誌だといふ印象を与えられますよ (爆)。編集の初歩テクニックですな。
ほんで評論は一年を通して飽きもせず状況論を書き続けてきた詩人による、月単位ではなく年単位の状況論で占められています。状況論は本来、原理的文学論や作家論などの著者が片手間に書くものです。詩人さんたちは状況論を書くことが評論活動だと勘違いしてるんぢゃなかろか。状況論を何本書いても、それを本にまとめてもムダです。決定的なことが書かれていませんから。一年の〆に相も変わらぬ思いつきの状況論を掲載するのなら、文芸誌のように通常号を出した方がスッキリします。
石川は外から詩の業界を眺めていてかなりヤバィよ~と感じますが、編集部も詩人さんたちも既存路線に安住して呑気にかまえておられる。詩の業界は、もう同じことを繰り返す力しかなくなっちゃったのでせうか。まるっきり危機感が感じられないことが、とても不思議な 『現代詩手帖年鑑』 なのでしたぁ。
■ りょん 詩誌時評 『 No.010 現代詩手帖 2013 年 12 月号』 ■