No.036 『安井浩司 「俳句と書」 展』 開催記念コンテンツ、山本俊則さんの 『安井浩司墨書句漫読』 『 No.019 『蓼をゆく秘密身ならヴァイオリン』 』 をアップしましたぁ。俳句を含め、詩の業界はなかなか難しい所です。詩集、句集、歌集は、ま~売れないのであります。つまりまがりなりにも小説界がそうしているように、一定のセールスをあげた (あげられる) 作家を順番に評価していくわけにはいかない。詩壇では作品評価はプロと呼ばれる作家たちに委ねられるわけですが、彼らの審美眼が絶対に正しいとも言えない。
たとえば俳句には 575 プラス季語という形式があります。いわゆる有季定型で、これが俳句界の大勢を占めます。しかし有季定型では形式が俳句を生み出している面が確実にあります。乱暴に言えば形式に従って言葉を並べれば作品ができあがる。俳人はパズルのような言葉並べを創作だと考えがちですが、有季定型に奉仕することで、有季定型という俳人格の一部を構成する俳句を生み出しているだけだとも言える。主語が有季定型である以上、作家の個性は希薄にならざるを得ません。実際、句を読んだだけで俳人の名前を言い当てられる作家などほんとんどいない。
このような非個性的な作品状況で、その評価に俳人個々の付加価値が紛れ込んでくるのは当然です。俳句初心者を親身に指導している大結社の主宰者や、結社誌を一生懸命編集している編集人は評価されやすい。彼らは大局的に見れば俳句界全体に寄与しているからです。逆に言えば、プロの俳人といえども絶対的自信を持って作品の善し悪しを判断しているわけではない。一定レベルを超えた作品なら、何を (誰を) 評価してもいいわけです。
金魚屋では昨年の 『安井浩司 『俳句と書』 展』 以来、ずっと安井さんに関する評論を掲載しています。誤解を恐れずに言えば、それは金魚屋が安井文学を無条件で高く評価しているからではありません。安井文学が現在の俳句の大勢とは明らかに異質で、俳句文学に対する原理的な異議申し立てのようなものを包含していると感じているからです。この作家は異様です。しかしその異様さは考えるに値する何かを持っていると思います。
不肖・石川、安井浩司論をお書きになっている金魚屋執筆陣は優秀な方たちだと思いますが、彼らは安井文学を読み解くのに相当に苦労されています。文学金魚で安井浩司論の掲載がなかなか終わらないのはそのためです。金魚屋は現在の俳壇に背を向けているように見えるかもしれませんが、決してそうではありません。むしろ安井文学を徹底して読み解くことで、将来の俳句界の基礎になる何ごとかを明らかにしようとしているのであります。
■ No.036 『安井浩司 「俳句と書」 展』 開催記念コンテンツ 山本俊則 『安井浩司墨書句漫読』 『 No.019 『蓼をゆく秘密身ならヴァイオリン』 』 ■