No.026 『安井浩司 「俳句と書」 展』 開催記念コンテンツ、田沼泰彦さんの 『 No.009 『声前一句』 の眼』 をアップしましたぁ。高柳重信さんを取り上げておられます。いわゆる前衛俳句の創始者です。1983 年にお亡くなりになりましたから、今年で没後 30 年です。重信さんを神格化するつもりは全くありませんが、この方、超切れ者です。不肖・石川、だいぶ前に三巻本の重信全集を読んだとき、なんて頭のいい人なんだろうと、でんぐり返りするほど驚嘆しました。俳壇に置いておくには惜しい。正直、そう思いました (爆)。
井筒俊彦という東洋哲学者がいて、彼は 〝文化的普遍者〟 という用語を使っています。簡単に言うと 20 世紀以降の世界標準の思考体系のことです。20 世紀以降、世界標準の思考方法は、ヨーロッパ的な用語定義と論理によって構築されるようになりました。この知のパラダイムは恐らく今後も不変です。しかし井筒さんが専門とする東洋哲学は、それとは違う体系で書かれている。西洋哲学と比較すれば、非論理的で混乱しているように見える東洋哲学を、文化的普遍者の言葉で再構築しなければ、東洋哲学は西洋哲学に拮抗し得る知の体系にはなり得ないというのが井筒さんの信念でした。
俳句や短歌という長い歴史を持つ文学も、東洋哲学と同様の面を持っています。言語化しにくいある直観的真理把握がその本質になっていることは否めません。ただ現代思想・文学としての要件を満たすためには、それをできる限り現代の論理的思考で解明・説明しなければなりません。重信文学の正否はさておき、彼の俳句評論は、子規以降の俳句文学ではほとんど唯一、現代の文化的普遍者の言葉で書かれています。しかし安井さんなどほんの一握りの作家にしか、重信的思考方法は継承されていません。
たとえば高浜虚子は、俳句は 『花鳥風月』 だと定義しました。実に含蓄深い言葉だと思います。正直に言えば、石川も究極を言えばそうなると思います。花鳥風月は自然界の森羅万象のことです。それを排除すれば、俳句は味気ないアフォリズムになってしまう。花鳥風月はその言葉以上のある内実(真理)を内包しているということです。
しかしこの言葉の内実は、いまだに文化的普遍者の言葉として表現されていません。有季無季などの技術論に終始していたのでは話にならない。俳句評論に限りませんが、文学金魚では業界内に向けて書かれた評論は不可です。作品と批評は創作を先へ進めるための両輪です。特にジャーナリズムとして作家さんたちの精神を活性化させるためには、優れた批評が必須です。まだ世に知られていない優れた作家を、文学金魚はまぢで探し求めておりますぅ。
■ No.026 『安井浩司 「俳句と書」 展』 開催記念コンテンツ 田沼泰彦 『 No.009 『声前一句』 の眼』 ■