水野翼さんの文芸誌時評 『No.010 S-Fマガジン 2013年08月号』 をアップしましたぁ。『日本ファンタジイの現在』 という特集を取り上げておられます。詳しくはコンテンツをお読みいただければと思いますが、水野さんは小説は 『 「説」 であり、何かを論じているので、その対象はやはりこの現実世界なのだ』 と書いておられます。つまり作家の現実世界認識が、物語の形を取って一つの 〝説〟 として展開するのが小説だということです。
わたしたちが 〝ファンタジイ〟 という時、小説にあるような現実世界との対応はありません。だから 『現実世界への批判意識がはたらかないのは、現実世界に利害関係を持たない者、すなわち子供である』 とあるように、ファンタジイは子供を対象読者にしているわけです。しかし現実世界と自己との関係を 〝説〟 として開陳するのが小説だと定義すれば、現実世界と関わらないファンタジイは小説ではないことになります。
でもだいじょうぶ (笑)。水野さんは 『現実世界への批判もインタレストもなくても、「世界そのものの真実」 に到達しようという意思は存在し得る』 と書いておられます。ここにファンタジイが小説文学として成立可能な理由があるでしょうね。
こういった議論は、作品を書くことばかり考えている作家には、右から左の耳に抜けてしまうものだと思います。しかし優れた仕事をしようと思うなら、考え抜かなければダメです。〝ファンタジイ〟 とか 〝ラノベ〟 といった分類は、メディアが付けた便宜的なジャンル名に過ぎません。既成の枠組みの中で仕事をしても既成品しかできない。『不思議の国のアリス』 や 『銀河鉄道の夜』 をファンタジイやラノベと呼んでも仕方がない。
水野さんは 『 「ラノベ界で活躍するファンタジイ作家」 とは、これいかに?』 と書いておられますが、不肖・石川も、こういったジャーナリスティックな物言いは無意味だと思います。まずラノベやファンタジイの原理的定義が必要です。有名になってお金が欲しいだけなら文学は遠回り。芸能人を目指すか実業の世界で起業した方がいい。文学は本質的には人間存在とは何かを巡る人文学の学問の一つであり、その要件を満たさない限り、どんなに売れてもゲームと同じ消費商品の一つです。
■ 水野翼 文芸誌時評 『No.010 S-Fマガジン 2013年08月号』 ■