大野ロベルトさんの連載評論 『『無名草子』 の内と外―読み、呼び、詠み、喚ぶ―』 (第004回) をアップしましたぁ。『無名草子』 では語り手の老尼は冒頭の方で早々と姿を消してしまい、後は人数も定かでないやんごとなき女房たちの物語談義が続くんですね。大野さんは 『こうして 『無名草子』 は不特定多数の語り部である女房たちの、より正確に言えば女房たちの多声性の牙城となる』 と書いておられます。面白いなぁ。
大野さんはこのような 『無名草子』 の語りの構造を、ガルシア=マルケスの 『族長の秋』 やマルセル・プルーストの 『失われた時を求めて』 と比較して論じておられます。また 『文学史をさかのぼれば、このような顔を持たない語り手たちの姿は、ギリシャ演劇のコロスへと立ち戻るだろう』 とも書いておられる。作品である以上語り (手) の枠組みは必要ですが、それが個の実存に限定されることはなく、むしろ個が希薄な負の陥没点のような形で外殻を作って、そこに他者の声 (多声) を取り込むという手法でしょうね。
いわゆる近代的自我意識以降の文学において、語り手をどうするのかというのは重要な問題です。作家の思想は主人公に投影されるわけですが、その実存的輪郭をはっきりさせればさせるほど作品の自由度は失われていく。特に現代文学においてはそうです。物語は不滅ですが、小説文学の可能性は飽和に近づいている。極論を言えば物語はマンガでもゲームでも体験できる。一部の純文学では小説の言葉そのものを現代詩化する動きが出ていますが、それでは現代詩の袋小路に頭から突っ込んでいくだけです。『無名草子』 の方法は現代文学にとっても参考になるでしょうね。
ところで来月 7 日から大野さんの連作詩篇 『空白』 の新連載が始まります。大野さんのペンネーム、〝露井〟 での執筆です。こちらも楽しみにしていてください。不肖・石川は毎日更新の文学金魚の編集人ですから、サクサク原稿を書いてくださる大野さんが大好きでありますぅ (爆)。
■ 大野ロベルト 連載評論 『『無名草子』 の内と外―読み、呼び、詠み、喚ぶ―』 (第004回) ■