* 紀元前4世紀から紀元3世紀までのギリシャの演劇用仮面(レプリカ、サスカチュワン大学蔵)。能面を想起せずにいることは難しい。
どことなく幽霊のようなところのある女房たちは、「いったいあなたは若い頃はどのような方だったのですか」と問いかける。老尼は、「私のようなむさ苦しいものに、あなた方のような若い方が声をかけてくださるのも、立派な仏様のそばで暮しておられるからでしょうか」と、奥床しさを通り越してもはや卑屈な答えを返すのだが、ともかくも先を促されて、しばし自分を語る。
十六七の頃から、老尼は宮中の人であった。皇嘉門院(崇徳天皇の中宮)の母である北政所に仕えていたが、北政所の死後も、娘の院に仕えるよりは宮中での仕事を選び、六条院や高倉院などの代まで仕えていたが、さすがに年を取ったので剃髪して出家したという。
「それからは毎日『法華経』を唱えてきたのですが、今日は道に迷ってその暇がありませんでした」と言いながら、老尼は経を読み出す。すると女房たちは身を乗り出して、もっとよく聞かせてほしいと茣蓙などを用意する。そうして「こんなに上手に読む方はめずらしい」と、気づけば七、八人の女房が取り囲んで耳を傾けている。彼女たちはすっかり興が乗り、「月も美しいし、今夜は語り明かしましょうよ」とまで言い出すのである。
しかし読経を終えた老尼は、「もう休みましょう」と物に寄りかかる。女房たちはお構いなしで、経文やら月やら花やらについて、色々と意見を交わしはじめる。老尼もついつい興味をそそられて、聞くともなしに横になって聞いている。女房はそのうちまた三、四人にまで減るが、残った女たちはもう話に夢中である。
と、なんとも奇妙なことに、老尼はここで唐突に姿を消し、テクストの最後まで言及されることがない。「つくづくと聞き臥したるに」というのが老尼に関する最後の記述であるから、あるいは寝入ってしまったのだろうか。だが、私たち読者を女房たちの元に導いたのはこの老尼に他ならないのだし、その手に持った花籠で女房たちの言葉を集めるのが老尼の使命であることが示唆されていた以上、本当に寝てしまっては困る。すると老尼のそれは狸寝入りであり、これから長時間にわたって続く女房たちの会話は、老尼が盗み聞きしたものの記録であるのだろうか。
結論から言えば、この問いに正解はない。だがすこしまえに、老尼が自己紹介をしていたときの言葉を引用してみよう。「あはれにも、をかしくも、めづらしくも、さまざまおぼしめされぬべきことを聞きつめてはべりしかども…」すなわち、「長く生きてまいりましたから、心に染み、赴き深く、まためずらしい話なども聞き集めましたが、いまはもうあまり覚えておりません」と、老尼は述べているのである。とすると、これから繰り広げられるであろう女房たちの話の内容こそ、老尼が忘れてしまった様々な話の代替物ではあるまいか、という期待が膨らむ。どうやらこの期待感を読者に投げかけ、想像力を刺激したところで、語り部としての老尼の役割は終わったのである。ここからは、より若く、老尼以上に得体の知れない女房たちが新たな語り部となる。
さて、女房たちの話を老尼と共に盗み聞きするまえに、ここでもう一度「多声性」の問題を整理しておくのもよいだろう。
『無名草子』の語り手、あるいは書き手とは誰なのだろうか? その人物はまったく姿を見せない。老尼に寄り添っていた語り手は、女房たちが登場するや否や、そちらのほうへ視点を移してしまう。そして、語り手自身、すぐに語るのをやめて、女房たちが語るに任せるのである。その後の語り手の仕事と言えば、ある女房の発言とつぎの女房の発言、ある話題とべつの話題との間に、読者の読みを助ける接続詞を投げ込むくらいのものである。
こうして『無名草子』は不特定多数の語り部である女房たちの、より正確に言えば女房たちの多声性の牙城となるわけなのだが、それは例えばガルシア=マルケスの『族長の秋』などの構造に意外なほど近い。
著者によれば「権力の孤独についての詩」である『族長の秋』は、カリブの独裁者を描いた1975年の小説であり、内容は『無名草子』とはほとんど関係がない。しかし「われわれ」という一人称複数を用いる語り手の姿には注目してもよいだろう。さらに、主人公である大統領に名前がないことも無視できない。この大統領はある場面では「ニカノル」と呼ばれるが、それが誤りであることも記されている。ここに語り手と作中人物との複雑な関係が透けて見える。つまりどちらも捉え難い存在であり、語り手は主人公の分身であるようにも思えるし、その対極の存在とも、あるいはいっそ別の時間にいる主人公その人とも考えられるのである。
なお、このような語りの構造がマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』にも酷似していることについては、すでにお気づきの向きもあるだろう。プルーストの小説の語り手は主人公である「私」なのだが、プルースト本人の生涯とあまりに深く関係する(そしてそのことが、読者にとっては重要な鍵にもなる)このテクストにおいて、「私」は自分がプルーストであるとは決して言わない。むしろ、「もし私が作者と同じ名前であったなら、マルセルと呼ばれただろう」という意味深な韜晦まで行っているのである。語り手を無名のまま浮遊させることで、記憶と意識のあわいを逍遥するこの小説はより強い説得力を持つことになる。
文学史をさかのぼれば、このような顔を持たない語り手たちの姿は、ギリシャ演劇のコロスへと立ち戻るだろう。演劇がまだ一人の主人公しか許さなかった時代、コロスは集合的に相手役を務めていたが、時代が降ると、語り手と登場人物の中間とも言うべき位置を占めるようになる。コロスは全知の視点に立って登場人物の言動を補ったり、舞台上の「現在」では語られることのない秘密や感情の動きを解説するのである。
プルーストの大長編と『源氏物語』との間に共通点が少なくないことは、だいぶ以前から繰り返し指摘されていることだが、さらに巨視的に見てみれば、それは日本とギリシャという東西の文学に、根源的な共通項があることをも物語っているのではないだろうか。『無名草子』の顔を持たない語り手と、その語り手に促されて文学談義に花を咲かせる女房たちには、確かにコロス的な機能があると言えるだろう。舞台上のコロスがしばしば仮面をかぶり、言ってみれば存在しない者として存在していることは、『無名草子』の語り手と女房たちが、姿をぼかすことで自らの多声性を担保していることと明らかに重なるのだ。
ともかく、これで舞台は整った。それではいよいよ、女房たちが繰り広げる対話に耳を傾けるとしよう。
大野ロベルト
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