釈照太さんの詩誌時評 『 No.007 角川『俳句』2012 年 10 月号』 をアップしましたぁ。『この時評では角川「俳句」をアイドル誌であると断じ、そこに登場する「俳人」をアイドルに喩えて語っています』 って、釈さん、石川の泣きが入ってしまひそうになるじゃありませんかぁ (笑)。ま、釈さんの俳人=アイドル説はそれなりのお考えがあってのことですから、詳しくはコンテンツをお読みいただければと思います。
ただ釈さんがお書きになっているように、角川『俳句』さんが俳句初心者を最大の読者ターゲットになさっているのは確かだと思います。自由詩や短歌界では年々読者が減少傾向にあるのに、俳句界では読者と書き手の両方を育てようという姿勢があるのは素晴らしいことです。しかし俳句初心者の中からは、必ず次世代を担う、本気になった作家が現れてきます。そういう方たちの受け皿が、今の俳句界には不足しているのかな、と感じないこともありません。
意地悪な言い方をすれば、『俳句界』の、という限定詞付きのアイドルですね。詩壇、歌壇、小説界でも同じような現象が起こっていますが、アイドルといっても業界内有名人というレベルを抜け出せないのです。知らず知らずのうちに、多くの作家の視線が内向きになっている傾向が見られます。まるで会社の中での出世争いをするように、業界内で少しでも目立とうと足掻いているように見えないこともないわけです。
メディアにはメディアの要請があります。メディアの要請を理解し、的確にそれに応えてくれる作家をメディアは起用します。よく観察すれば各メディアにはそれぞれ特色があり、大筋ではメディアの方針に沿って雑誌等を作り上げていることがわかるはずです。別に偏向でもなんでもなく、メディアが利潤を追求する企業である以上、これは当たり前のことです。
雑誌が初心者啓蒙を大方針として採っていれば、書き手はその要請を多かれ少なかれ受諾しなければなりません。そこで『俳句における思想詩とは何か』と設問しても、『俳句で思想を表現するにはどういった方法があるのか』という初心者向け技術解説になってしまうのは半ば必然です。しかしプロは雑誌の要請を的確に理解するのと同時に、自らのジャンルの本質を突き詰めて探究しなければなりません。俳句初心者を卒業された方たちも、そのような本質的探究を熱望されているのではないでしょうか。
で、文学金魚はまったく俳壇とのしがらみがありません(笑)。金魚の方針は、単純に俳句文学とはなにかを明らかにすることにあります。
■ 釈照太 詩誌時評 『 No.007 角川『俳句』2012 年 10 月号』 ■