池田浩さんの文芸誌時評 『 No.008 新潮 2012年11月号 』 をアップしましたぁ。玄侑宗久さんの原発モノ小説 『アメンボ』 を取り上げておられます。玄侑さんは臨済宗の僧侶で小説家です。東日本震災復興構想会議委員もつとめておられます。福島県三春町のご出身なので、今回の震災と原発事故になみなみならぬ関心を寄せておられるのだと思います。
で、一般論としての 『原発モノ』 文学であります。それについて微かな違和感を感じているのは池田さんだけでなく僕も同じであります。東日本大震災はまったくもって天災であり、北野武さんぢゃありませんが、『バカヤロー』 と叫ぶ以外に怒りのもっていきようのないところがあります。東北地方の一部は戦後と似たような廃墟となってしまいましたが、そこで善と悪などの対立を描くことができないのが戦後文学との大きな違いです。
人間の善の側面を描くのは文学の大きな役割ですが、一方で悪を描くのも大事な役目であります。数十年後に震災・原発モノ文学はどう読まれるのかと考えると、なんかとってもこころもとない。とおり一辺倒のことしか書かれていない時事的文学、あるいは資料的価値しか持ち得ないのではないかと思われます。震災・原発の描き方一つとっても、文学の衰弱が現れているような気がするわけです。
金魚批評でどなたかが、戦後文学は戦争『体験』を高次の思想に練り上げられなかったために思想文学としての寿命が短かったと書いておられました。震災・原発文学でも同じことが起こりそうな気がします。なんの本質にも届いていないような気がするわけです。
■ 池田浩 文芸誌時評 『 No.008 新潮 2012年11月号 』 ■