三宅唱『Playback』2012年(日)
脚本・編集・監督:三宅唱
企画・プロデュース:佐伯真吾、松井宏、三宅唱
ラインプロデューサー:城内政芳
撮影:四宮秀俊
照明:秋山恵二郎、玉川直人
録音:川井崇満
主題歌:“オールドタイム”大橋トリオ
出演:村上淳、渋川清彦、三浦誠己、河合青葉、山本浩司、テイ龍進、汐見ゆかり、小林ユウキチ、
渡辺真起子、菅田俊 ほか
上映時間:113分/B&W/35mm
殺風景なビルの一室で、これが最後の挑戦だと覚悟を決めているらしい年配のプロデューサーが、久しぶりに再会した俳優に向かってまた一緒に映画を撮ろうと呼びかける。ある場面ではバスター・キートン好きを公言するこのプロデューサーは、最後となるその作品にはコメディがふさわしいと熱弁を続けるが、俳優である男がこの呼びかけに真面目に応じる様子はない。むしろ、プロデューサーのそうした熱意と俳優のまさにキートン的な無表情とが対照をなすこの場面は、それ自体が滑稽であると同時に悲しくもあるコメディに見えてくる。実際、もはや若くはないこの男たちと、彼らの傍でただ黙っているだけの若すぎるマネージャーの三人が集まるこの寂れた部屋から、いったい何を始められるというのだろうか。そうした雰囲気が部屋中に漂うこの場面のはじめの方で、プロデューサーの遠藤(菅田俊)は、ハジと呼ばれる俳優(村上淳)に対して次のようにいっていた。「選択と結果、選択と結果、その積み重ねとしての今だろ。お前、大丈夫か?」。
果たしてこのセリフが契機となったのかどうかは定かではないが、このあとハジは、友人の結婚式に向かう途中でなぜか過去にタイムスリップしてしまい、自身の高校時代、すなわち「選択」のときへと戻っていく(車中で寝ていたはずのハジが気づいたら学生服を着て高校時代のバスに乗っており、そこから降りると山本浩司扮する同級生のドタバタに巻き込まれる展開は、『キートンの探偵学入門』(1924)でスクリーンという別世界に入っていき、そこでスラップスティックな展開に耐えるキートンを思い起こさせる)。30代後半の村上淳をそのまま高校生役としても起用する実にラディカルな本作『Playback』(2012)は、監督三宅唱の現時点での最新長編作品であり、前作『やくたたず』(2010)に引き続き全篇モノクロである。主人公の昔と今の状況が入り交じるこの作品の全篇をモノクロで映し出すことは、これら過去と現在との間に本質的な区別を設けないことを意味している(過去はモノクロ、現在はカラー、というのが一般的な考えだろう)。それと同時にこの決断は、この作品が「選択と結果」という因果関係を物語の主題としつつ、映画としてさらにその先へと向かう意志の表れでもあるように思われる。過去と現在が等しくモノクロで描かれるのと同様に、「選択」と「結果」はその区別を徐々に曖昧にしていき、最終的にカメラはかけがえのない「今」を捉えることに向けられる。「選択と結果」の積み重ねではないこうした「今」の可能性を見せるところにこそ、『Playback』が繰り返し見られるべき傑作である所以があるのだ。
映画の序盤では、主人公ハジの現状、すなわち彼のこれまでの人生の「結果」がどうしようもなく行き詰まったものであることが観客に示される。中国人監督からアフレコの仕事に駄目出しをくらい、家では別居中らしい妻の荷物が引っ越し業者によって運び出される様子をただ呆然と見ているしかないこの男は、しかしそうした状況を変えようという意志を見せることもなく、いかなる主体的な行動からも徹底的にかけ離れた人物として映画に導入されている。それぞれの場面の冒頭で映し出されるベンチやベッドで寝ている姿、あるいは車がひっきりなしに行き交う道路を横断歩道など意に介さずに渡っていく印象的な場面などに顕著なように、映画は心理的な描写に頼ることなく、あくまで周囲の世界とは隔絶しているかのようなハジを演じる村上淳の身体感覚を丁寧に捉えていく。したがって、ハジの現状は停滞しているものの、映画自体は余計な重苦しさを身にまとうことなく、むしろ独特の浮遊感を持った実に魅力的なショットを積み重ねることに成功している。
40代を目前に控え、仕事や家庭生活が危機の最中にあって行動しない/できないこの男は、したがって姿はそのままに高校時代にタイムスリップしたところで、(たとえば『デジャヴ』(2006)のデンゼル・ワシントンのように)過去を変えるような何らかの行動をとることもなく、同じく高校生には見えない当時の友人たちと過ぎ去ったある時間を反復するだけである。30代の男女が学生服を着て高校生を演じるというこの映画自体のフィクション性のためだろうか、旧友たちと自分自身を見つめるそうした時間は、あたかもハジが自身の「選択」のときが映し出される映画を見ているかのようだ。ただし注目すべきは、そこに見られるさまざまな選択が、当時のハジが決して気づくことのない間になされていたという点である。実際、ハジはなぜ俳優になったのか。ある日の放課後、俳優志望であるらしい友人のモンジ(渋川清彦)の付き添いでボン(三浦誠己)と三人でプロデューサーである遠藤に会いにきたはずが、二人が去ってしまったために一人遠藤のもとにとどまることになったハジは、そのときすでに遠い未来のあの殺風景な部屋へと繋がる選択をしてしまったのではないだろうか。走り出す二人と彼らに取り残されてベンチで座ったままのハジを捉える超ロング・ショットは、そうした決定的な瞬間が生じてしまったことを見るものに確信させる。あるいは、ハジの母親との関係を見てもよい。この過去のパートでハジの母親を演じる渡辺真起子は、現在のパートでは彼の妻を演じている。この母は、息子であるハジやその友人たちに向かって男は自分の母親に似た女を選ぶと自信満々にいう。一人二役の設定が後から効いてくるのだが、ここでもハジは、過去=母親を見ることですでに自分が未来の妻を選択していたことを知るだろう。すべては選択の瞬間であったのだ。
過去なのか夢のなかなのか、とにかくそこではやがてやってくる「結果」と結びつく「選択」のときが描き出される。それらを目撃するハジは、友人たちと馬鹿話をして笑い合っていただけのあらゆる瞬間が、同時に選択のそれでもあり得たことをはじめて理解するはずだ。その意味で、この映画における過去への旅は、文字通りすべての時間のかけがえのなさをハジに示しているといえるだろう。
しかし、『Playback』が真に過激なフィルムとなるのはここからである。映画の前半では、結婚式に参加するハジの一日がここまで言及してきた高校時代のパートと交互に描き出されていたが、後半においては、過去から戻ってきたハジがなぜかこの一日を丸々繰り返す、すなわち映画自体が「プレイバック」されることになる。したがって、一度目との違いは散見されるものの、その大まかな流れは観客がすでに見た光景をなぞっている。ベッドで起床し、病院に行き、結婚式に向かう、というタイムスリップが生じたその日の出来事が繰り返される(ただし今回は過去に戻らない)ことになるのだが、ここでハジを見るこの映画の観客は、もはやそれらの彼の行動を「選択と結果」という因果連鎖として見ることはない。むしろそこで際立たせられるのは、映画の前半ですでに私たちが見たはずの、いかなる「結果」にも結びつくことのなかった動作の反復である。恩師の墓参り、友人宅の訪問、結婚式への参加、等々の時間がわずかに変奏されつつ繰り返される。では、ここで「選択」ではなく反復を見るわたしたちは、それらの時間やそこでのハジの存在をもはやいかなる物語も紡ぐことのないものとして退屈しながら見ることになるのだろうか。
観客が抱くであろうこうした懸念は、後半部分を実際に見ることであっさりと覆される。なぜなら、『Playback』とそこで演じる俳優たちは、この「プレイバック」以後の世界でますます輝くことになるからだ。そもそも上記の状況(墓参り、友人宅の訪問、結婚式)は、どれもハジの人生における「選択と結果」とはほとんど関係のないものであった(他人の結婚式とは自分の人生にとって何の意味があるのだろうか)。また、それらは物語の因果的な展開において何の意味も持っていないような時間である。しかし、無意味に思われたこうした時間が劇中で「プレイバック」されることによって、もはやそこでのハジの行動は「選択と結果」という因果的な観点から見られることさえなくなり、そうしたいわば停滞した時間に在ることそのものを肯定する力強さを獲得する。私たちはここに「結果」と結びつく特権的な「選択」がないことを知っているが、むしろこうした特権性の根底的な不在においてこそ、この後半部分のすべての時間が同等の価値をもつもの、すなわち等しくかけがえのないものとして映し出されることが可能となっているのだ。
そこにただ在ることのこのような肯定は、結婚式の会場を抜け出たハジとモンジが池の畔で会話をする見事な場面に象徴されている。そこでハジが一度目=映画の前半ではボンがしていたある昔話をするとき、すでにこの話を知っている私たち観客は、その内容に興味を向けるのではなく今ここでそれを語るハジや耳を傾けるモンジの顔を注視することに誘われる(横に並んだ両者の顔を交互に捉える切り返しが素晴らしい)。この昔話を覚えていないモンジは、ハジに対して「終わったことを話すのは罰当たりで、これから起こることを話すのは恥ずかしいことなんだってよ」というが、まさにここでは「終わったこと」でも「これから起こること」でもなく「今」ここにある顔を撮ること/見ることに賭けられているのだ。この「今」はいかなる「これから起こること」とも結びつかないかもしれないが、だからこそ「結果」との関係からその価値が計られるのではなく、それ自体で固有の輝きを放つに至るのではないだろうか。この圧倒的な「今」の肯定の感覚こそが『Playback』の後半部分を包み込んでいる。
今そこに在ることを肯定する力強さ。それは、いかに反復に見えようとも今がそのときにしかないという儚さの裏返しでもある(それゆえに、一度目と二度目の差異がある人物の不在を通じて痛切に感じられる)。過去へのタイムスリップによってあらゆる瞬間がかけがえのないものであることを知ったハジもまた、この今そこに在るという生き方を受け入れるだろう。だからこそ、この後の場面でハジがスケートボードに乗って地面を蹴る瞬間は、この上なく感動的なものとして観客の目に映る。映画の冒頭から行動を奪われていたハジが、ここでは「選択と結果」という因果連鎖を担うためではなく、そうしたものに縛られない運動をスクリーン上に実現しているからだ。行動の不全からただ在ることへのこの移行はハジが俳優として再生するプロセスでもあり、その意味でこのスケートボードの場面はそのための儀式として見ることもできるだろう。そしてそうした運動を見る観客もまた、物語を展開させるための因子としてではなく、スクリーン上で理由なく輝く存在として俳優を受け入れることを学ぶのだ。このように『Playback』は、ハジと観客の両方を因果連鎖から解き放つのである。
ハジがスケートボードで滑る舗道には亀裂が生じている。2012年に公開されたこの映画を見る私たちはそれを震災の跡と認識するが、その跡はこれまで見てきたどのような震災のイメージとも異なっているように思われる。むしろそれは、「震災のイメージ」と括られることを拒絶しているかのようにただそこに在る。この亀裂は唐突に、いかなる因果的な説明が与えられることもなくそこに在るからこそ、言いようのない存在感を帯びているのだ。不意に接続されるこの現実を前に、ハジと同じく私たち観客も立ち止まる。ここで問われているのはそこに在るものを見ることである。
川﨑佳哉
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■