濱口竜介 『何食わぬ顔』 (short version) 2003年 (日)
製作・監督・脚本・編集:濱口竜介
撮影:渡辺淳、濱口竜介、東辻賢治郎
録音:井上和士
音楽:ROMAN
出演:松井智、濱口竜介、岡本英之、遠藤郁子、石井理絵 ほか
上映時間:43分 8mm カラー
地方から予備校の夏期講習のために東京にやって来た男女と、その男の高校の同級生であり、現在は東京に暮らしているらしい女とその男友達二人が主な登場人物である。この五人の間の恋愛も含む関係性が、空港、ホテル、カフェ、モノレール、地下鉄、そして競馬場といった実際の東京のロケーションを活用して描かれていく。本作は若手の映画監督である濱口竜介が2003年に大学在学中に撮った、まぎれもない自主映画であり、当然のごとくと言うべきか、今となっては珍しいと言うべきか8ミリフィルムで撮影されている。short versionとあるのは、同じ題名のlong versionにおいて本作は、登場人物たちが作る映画内映画として扱われているからだ。映画内映画であると言っても、long versionの中で本作がそのまま完結した一本の映画として上映されており、short versionだけでも物語が完結していて、一本の映画として見ることができるようになっている(現在、このshort versionはインターネット上のサイトLOAD SHOW でダウンロードして見ることができる)。
本作の魅力は、まず何と言っても競馬場を主な舞台にしているということだろう。おそらく20歳になったばかりの男女の恋愛話が展開する背景音が、レースの詳細を知らせる場内アナウンスと駆ける馬の雪崩のような蹄の音というのはおかしなことだし、たまたま撮影現場に居合わせたと見られるおじさんたちが登場人物たちの周囲を平気で通り過ぎていく。しかし、本作の特筆すべき点はこれら一見すると物語の進行の妨げとなるべきものこそ、この映画を撮る動機であったかのように見え、そこに若者たちの物語がいわば寄生しているかのようにも見えると言うことだ。疾走する馬の姿と蹄の音、競馬に熱中しているおじさんたち(これはlong versionの冒頭でより印象的に捉えられている)、さらに飛行機、モノレール、その車窓と言った周囲の事物に、物語を展開させることよりも重きが置かれているように見えるのだ。
そして、まさにこれらの事物こそが、物語に緊張感を与えている。あの馬の疾走と轟音こそが、この競馬場で男女の間に起こるであろう変化が如何なるものなのかを予期させる。馬の疾走するショットがもつ観客を唖然とさせる強度は、その光景を見る登場人物にも圧倒されるような感覚を与えているのであり、つまり、どうしようもない何か、何ともしようがない事態が現実には存在し、常に起こりうることを明らかにしているのである。
しかしながら、実際に起きることとは、男三人と女一人が競馬場でお喋りしている途中で、一人の男と女が掛け落ちするということであり、彼女目当てに上京したと言ってもおかしくなく、プレゼント用にバラまで買ってきた男にとっては決定的な出来事かもしれないが、彼にとってもそれほど重大な事態だと明白に観客に分かるようには演出されておらず、果たしてそれは掛け落ちと呼べるものであったのかどうか怪しいくらいだ。むしろ物語とは直接関係のない馬の轟音が、または掛け落ちらしきことをする男が彼女を追いかけていくトンネル内の音楽が、何もないところに、劇的な物語の存在を予言し、また強調しているかのようである。実際、掛け落ちらしきことをする男女は、以前のシーンで告白のようなことをしている風なのだが、果たしてあれを告白と呼んでもよいのか、結局二人の間はどうなったのか、結論を下すことには躊躇を覚えるだろう。登場人物の目配せがかろうじて物語に方向性を与えているように見える。このように『何食わぬ顔』全編に渡って登場人物の行為は、それをそれと名付けるできることのできる一歩手前に常に留まっているのだ(long versionについても同じことが言える)。掛け落ちされた後に残された初対面の男二人がボーリング場に行って何事もなかったかのように楽しんでいる場面など、まさに楽しそうにボーリングをしているのであり、あくまで観客がそこに慰め合いという意味を読み込むことができるに過ぎない。すべての行為や出来事はその輪郭が拡散し、呼応しあい、そもそも一つの行為を他と切り分けるような境界などないことが明らかとなる。告白しそれが成就していたから掛け落ちをしたのか、むしろ掛け落ちをしたから告白は成就したのかは問題ではなく、残された二人の男が一緒にボーリングしていることも含めて、この一連の流れ全体が後から振り返って考えてみた時、恋愛話と言えるようなものになっていたとしか言いようがないのだ。
このような物語の輪郭ならざる輪郭の中で、事物や特に登場人物の顔や姿の存在が鮮烈なものとなってくる(話している人以外の人を見る目配せは、その場面の中心となっている人だけが映画内の世界に存在する人ではないことを明らかにしている)。その意味で、冒頭近く、オープニングクレジットが現れるシーンは印象的だ。蛍光灯の弱い光しかない、ほとんど真っ暗な画面に、出演者と思しき名前が白い文字で一人ずつ現れる。少しして画面右の方が俄かに明るくなったかと思うと、光が一瞬にして画面全体を照らし出し、そこが走行中の列車内であることが分かる。ドアの脇に二人の男女が立っていて、走行中の車窓からは海か川らしき水面と少しかすみのかかった空が見え、画面中央にフェイドインするようにふわりと『何食わぬ顔』というタイトルが現れる。いささか出来すぎではあるが、しかし暗闇から一瞬にして登場人物や周囲の事物の姿が現れることで、スクリーン上に人物や事物が存在すること自体の奇妙さと重要性を明らかにしている(long versionの冒頭はさらに感動的だ。そこでは真っ暗な中で登場人物の声が聞こえ、サッカーを始めようとしているのが分かる。すると葬式帰りの喪服を脱ぎ、真っ暗な中、白いシャツがスクリーン上に見えるようになり、スクリーン上に人が存在し始める)。
事物から出発し物語の一歩手前に留まること。これは物語が存在することを観客に明白に示しており、単なる物語を語る上での拙さではない。むしろ『何食わぬ顔』は物語映画が誕生するまさにその瞬間に観客を立ち会わせようとするものなのだ。おそらくその誕生は事物と物語の偶然の遭遇によるものなのかもしれない。そして、この遭遇の偶然性こそ、終盤の異様に長いモノレールのシーンが明らかにすることなのだ。夏期講習で地方から来た二人は、帰りの飛行機に乗るため再びモノレールに乗っている。車窓にはビル群や高架橋や巨大な倉庫とその隙間から青空が見える。二人は斜向かいになるようにボックス席に座り、背景の車窓の明るさによってシルエットになっている。平坦な走行音とともに規則的に繰り返すレールのつなぎ目を超える時のガタンという音が聞こえてくる。女性はバッグ中から国語辞典を取りだすと、「夏」の項目から「懐かしい」、「夏風邪」などと順にその語句の説明を読み上げていく。この場面は他の場面と比べてもかなり長い印象を受ける上に、物語的にも必要な場面ではないように思えるが、しかし、この順に読み上げられる語句は、「懐かしい」のように、高校の同級生に会いに来た男の物語に密接に関連していたり、「ナット」のようにおおよそ無関係であったりする。この密接さと乖離はあいうえお順を採用した辞書における語句の位置、さらに言えば日本語においてある事物を指すために偶然割り当てられた音というものによって偶然に生じている。この場面は物語を映画で語ることに本来潜んでいる偶然性という難しさと楽しみの源泉を直接的に明らかにしているのだ。
「物語ること」と言うテーマは濱口竜介のそれ以降の作品でも幾度となく繰り返し現れている。そこでは、本作でもいじめに関する思い出話のシーンに見られるように、真実であれ嘘であれ他の人に何かを伝えること、語ること自体の倫理が問題となっているようだ(ただし『なみのおと』から始まる、酒井耕と共同監督した東北三部作は「語ること」をまさにテーマとしつつもむしろ「聞くこと」へと移行しているようにも思える。同時にこれらはより明確にスクリーン上に人物が存在することの難しさと不思議を実験的なカメラ位置や編集によって探究している)。したがって、long versionの物語内で若くして亡くなった映画監督の遺志を引き継ぎ遺作を完成させようとする人々の間に起こる、これをその監督の作品として作っても良いのか、さらに言えば監督の思いを勝手に代弁して「語って」もよいのかという葛藤を経たのちに完成した映画であるshort versionに、物語を語れることの偶然性の自覚と喜びが含まれていることの意義は大きい。DVDで簡単に見ることのできる濱口竜介作品としては『PASSION』があり、新作としても同じサイトで『不気味なものの肌に触れる』があり、さらに11月9日からは東京のオーディトリウム渋谷で東北三部作の上映も始まる。これらの濱口作品を見ていくためにも、まだ臍の緒がついたままの物語映画である『何食わぬ顔』の誕生に立ち会うことから始めるのもいいかも知れない。
玉田健太
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