実験刑事トトリ2
NHK
土曜 21:00~
これを見ながら、別の推理ドラマのことを考えていた。申し訳ないが、推理ものというのは本歌取りの和歌の世界のようなところもあり、オリジナルであってオリジナルではないものなのだから仕方がない。もちろん、あらゆる作品はそうなのだが、それに対して意識的である分、知的なものなのだ。これが恋愛ものだと、作品も、そこに描かれた恋も、世界で唯一のものだという振りをしなくてはならないので、しんどい。
思い出していた推理ドラマとは他でもない、あの『刑事コロンボ』である。あれは何ゆえに、あれほど面白かったのだろう、と。『刑事コロンボ』は倒叙型の典型で、まず最初に犯人がわかっており、さらにそこで仕掛けたトリックも大方わかっている。そうなると本格推理と呼ばれるものと違い、謎解きで視聴者や読者を引っ張ってゆくことができない。とすれば、我々の目が惹きつけられるのは、何も知らないはずの刑事コロンボが真実に迫ってゆく、そのあり様しかない。
このとき我々の心情は、実のところかなり犯人に寄っている。何もかも知っている、という意味では、我々は犯人と同じ立場だからだ。『刑事コロンボ』の人気を支えた一つの要素は、毎回の犯人たちのセレブぶりであり、そんなセレブが犯罪に手を染めなくてはならなかった事情も、承知しているのだ。しかしセレブたちが地に落ち、罰されることに視聴者が溜飲を下げた、という当時の説は間違っている。我々はそれほど意地悪ではない。ただ余計に傷ましさを感じただけである。
傷ましいのに目を背けられない、なお惹きつけられるのは、怖いもの見たさというものだ。何が怖いかといえば、コロンボである。すべてを見抜く刑事コロンボが恐ろしくてならないのだ。この点も、コロンボに揺さぶられ、挑んでは墓穴を掘るセレブな犯人たちと心情をひとつにする。『刑事コロンボ』は本格推理ではなく、すなわち知的な謎解きゲームではない。刑事コロンボという、恐ろしい神のような存在による一種のホラーであった。
「実験刑事」だというトトリは動物学者なのだが、なぜ動物学者なのか、そこはよくわからない。いろんな(しかしまあ、簡単な)実験をして、トリックとしてはやや複雑な仕掛けを暴いていくのだが、特に恐ろしい感じはしない。というのも、その推理はご都合主義で、「解釈」にはなり得ても、およそ「証拠」にはなり得ないことすらある。そんな論理の甘さこそ、数学者でなく動物学者であるがゆえかもしれないが。
犯人たちはそれでもトトリに指摘されると、べろべろ自白してしまう。それも別にトトリが他の人気シリーズ(たとえば『古畑任三郎』)のような魅力あるキャラクターだから、というのでもない。しかし推理ドラマは何も突出しない折衷であってもよく、そうであるという開き直りがあるなら(たとえば『相棒』のように)主人公に中途半端な人間的魅力なんぞない方が、いっそ納得がいく。
『実験刑事トトリ 2』はあらゆる面で、またあらゆる意味で折衷的な推理ドラマであり、その結果として主人公は徹底して魅力に欠け、いっさいの印象を残さない。そしてそういうドラマを制作するというのは NHK にしかできない、それ自体が意欲的な「実験」として非常に興味深い。
田山了一
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■