ガラスの家(放送終了)
NHK
火曜 22:00~
ドラマ10シリーズの一作。大石静の脚本である。大石静というと、「典型的ドラマ」という言葉が浮かぶが、今回もそうであった。最後まで徹底鉄尾、ステレオタイプだ。
それが悪いのかと言うと、別にそんなことはない。ドラマ10といえば、目が覚めるように新鮮な佳作もあるが、それをそうと感じられるのも、一方で典型的なドラマが流れているからだ、ということを忘れてはならない。そして本当に斬新なものというのは、ある種の人々の記憶には残るが、そのときの数字は意外に取れていなかった、ということがよくある。テレビというのは、実験的な試みに向いているとは言い難いのだ。
二人の息子がいる家庭、地位も名誉もある父親のもとに若い後妻が来る。その女が息子の一人と恋に落ちる、というのが大筋である。インモラルと言っても目を剥くほどではなく、話に聞くかぎりでは、よくあることじゃないの、と思えてしまうようなことだ。
よくあるかどうかは知らないが、知り合いに、自分の息子の見合い相手を取っちゃって後妻にしたお父さんがいる。こっちの方が面白いのだが、息子としてはブンブン怒るわけにもいかないので、ドラマになりにくい。「ガラスの家」のお父さんはブンブン怒るので、それがプレッシャーとなってドラマが成立する。父離れの物語、なのだそうだ。しかし、果たしてそうなのだろうか。
普通の親離れというのは、親と本質的に無関係になることだ。女ぐらい、親の関知しない家の外で探してきたら、というのが大方の感想ではないか。親父と新しいお袋を遠目で眺めて、よくやるなー、とか言ってるのがフツーの親離れした男の子だ。ま、親子で女の趣味が同じ、というのはいかんともしがたいが。
つまりは「家」がガラスのように崩壊しやすいことが問題なのではなく、もう大きくなった男の子二人とお父さんとで「家」を意識し、保持しようという発想が、リアリティよりはドラマの典型そのものを目指しているということになる。ギリシャ悲劇的であろうとしている、というと大上段に構えているようだが、この家のお父さんの社会的地位の設定など、まあ思い切り意識的に大上段ではある。
もちろん細かい芸として、先妻は事故で亡くなったが、後妻に来たのはその同じ事故に遭遇したことで知り合った女であるとか、息子のもう一人の兄弟の妻となる女が「ガラスの家」を執筆したという物語批判構造とかがあるにはある。が、そういったことが表層的なもので、たいした意味を持たないところが、ベリー大石静的であり、ベリーTVドラマ的なのである。
新しい発見としては、井川遥というのは美人なんだなあ、ということに尽きる。魔性とか運命の女と言われると、それはどうかと思うし、男がやたら執着するには、残念ながらちょっと首が太いような。。。それでも女というものは、背景に物語があってなお美しく見える、と感じられたドラマだった。
山際恭子
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■