少し前、といっても1年以上は経っていると思うが、BSでDelifeテレビが映るようになった。寝る前にちょっとテレビをつける人は多いと思うが、深夜になると民放はコマーシャルだらけ、BSはNHKを除けば通販番組で占められるようになる。それもあってなんとなくDelife TVを見るようになった。深夜0時から2時くらいまでの時間帯、Delife TVではアメリカドラマを放送している。毎回見られるわけではないから続きものは敬遠して、一話完結型のドラマを楽しんでいる。中でも『コールドケース 迷宮事件簿』、『クローザー』、『LAW & ORDER』などがお気に入りだ。全部刑事モノで、1時間できっちり事件が解決されるパターンのドラマである。
『コールドケース』はフィラデルフィア市警殺人課所属で、未解決殺人事件専門の女刑事リリー・ラッシュ(キャスリン・モリス)が、新たな証拠が出たのをきっかけに仲間たちと謎の解明に挑むドラマである。『クローザー』はロス市警重大犯罪課のチーフで尋問の名人、ブレンダ・ジョンソン(キーラ・セジウィック)という女性捜査官が、チームを率いて難事件を解決するストーリーである。『LAW & ORDER』は現在登場人物が異なる2シリーズが放送されている。ニューヨーク市警察で男女2人でチームを組む刑事が、性犯罪などの重苦しい事件を解決していくドラマである。
ドラマはその国の現在を知るための良い教材だが、これらの犯罪ドラマには、アメリカの現在の精神風土やその問題が反映されている。犯罪者たちは刑事に対してまったく畏怖を感じていないし、敬意も払わない。絶対的証拠を突きつけられない限り、最後の瞬間まで罪を免れようとする。また罪を認めたとしても、司法取引などでその軽減を図る。少なくともドラマではそのような形で犯罪が描かれている。だから日本の刑事ドラマのように、犯罪者からの改悛の言葉はほとんど聞かれない。手錠をかけられ連行されていくだけだ。それがこれらのドラマに一種独特の冷たさと残酷さを与えている。
『コールドケース』は豪華なセットと的確な配役が魅力的だ。アメリカでは殺人に時効がないから、1940年代の殺人事件でも証拠が出れば罪に問われる。当然、セットは往事を再現しなければならない。また若い頃と現在の年老いた姿に異和感が出ないように、たくさんの役者をオーディションして似通った俳優を配役しているようだ。連続殺人犯のように確信的犯罪者ではなく、人間関係の軋轢から一度だけ罪を犯してしまった者がほとんどだから、その複雑な事情が当時の町並と、若い頃と現在の姿をフラッシュバックさせながら解き明かされてゆく。
イジメ事件を扱った回は印象に残っている。高校時代のダンスパーティに、太った女の子ばかりを招待して彼女らを笑いものにしようとしたワルガキがいる。ワルガキの真意を知った女の子の一人が、怒りにかられて家に火をつけてしまう。家の中ではリーダー格の女の子が、「なんでこんなことするの!」とワルガキに敢然と立ち向かっている。ワルガキは彼女をもてあまし、火が迫っているのを知りながら、部屋の中に閉じ込め外から鍵をかけてしまう。そのまま彼女は焼死するのである。やりきれなさが残るストーリーだったが、イジメを根絶したいのなら、ドラマとはいえこのくらいの残酷さは必要だろうと思った。
『クローザー』では、有力者の父親の権威を傘に着る、やはりワルガキの回が秀逸だった。彼は学校で目立たない女の子ばかりを狙い、甘い言葉でデートに誘ってレイプしていた。男友達と何人の女の子を落とせたか(実態はレイプなのだが)を賭けていたのだ。その中の女の子の一人が自殺してしまう。「どう見ても自殺だ。殺人課の事件じゃない」と言う部下や上司の言葉を無視して、主人公のブレンダ・ジョンソンは殺人事件として捜査を始める。彼女は厳しい尋問の末、ワルガキに「殺してない。レイプしただけだ!。誰にも相手にされないくせに、あいつが抵抗するから悪いんだ」と言わせる。ジョンソン刑事は「I know」、「そうよ」と答える。最初から知っていたのだ。彼女はワルガキにレイプを自白させ、連続レイプ事件として立証して長い懲役刑を科すために、あえて殺人事件として捜査していたのである。これもやりきれなさが残る回だったが、秀逸な仕上がりだった。
これらのドラマでは、男はスーツにネクタイ姿で、女性はビジネススーツを着ている。それが一種独特の重苦しさを倍増させている。スーツは単なるファッションではなく、制度的なものであることが伝わってくるのである。刑事たちは法によって縛られている。その強い拘束力の象徴としてスーツがある。もちろんこれらのドラマでも、男女の性差――小原眞紀子さんの『文学とセクシュアリティ』的な意味だが――は有効に活用されている。同じスーツを着ているとはいえ、男刑事よりも女刑事たちの方が積極的にその限界を打ち破ろうとする。刑事部長や検事などはたいてい男だが、彼らは苦虫を噛みつぶしながら、制度的限界ギリギリの所で戦う女性刑事たちの奮闘を受け入れるのである。
ちょっと前にTBS放送の『半沢直樹』が大ヒットした。久しぶりにスーツを着たカッコイイ男たちを見たという気がした。この格好良さは、制度にがんじがらめに縛られている男たちが発するものだ。彼らは息苦しいほど制度に縛られた存在でありながら、その枠内で精一杯闘っている。またその闘いが正当に報いられるとは限らない。しかしそこには一種の美学がある。『半沢直樹』は痛快なドラマだったが、この息苦しい美学もまた、あのドラマの魅力だったのではなかろうか。
テレビドラマでは、スーツを脱ごう脱ごうとしている男女が主人公になることが多い。制度に縛られない自由な人間を描くことによって、視聴者に夢を与えようとするのである。しかし現実は違う。日本のドラマでは、スーツとカジュアルの服装の違いがはっきりと意識的に活用されている場合は少ないが、アメリカドラマではその違いは明確だ。長い自由主義の伝統を持つからこそ、アメリカは人種や宗教、貧富などの格差に敏感な国だと言える。スーツは一種の戦闘服である。そういった小道具に注目してテレビを見るのも楽しい。
田山了一
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■