日本の本屋で見ることのできる、さまざまな本はいまやたいてい、短い間にどんどん入れ替わってゆく。しかし子供の本は、そうでもない。読者である子供と母親が年々、入れ替わってゆくのだから、本の方はじっとしていてもいい。
そんな子供の本には、絵本と童話の二種類がある。絵本はごく幼い子供から読み聞かせることができるが、童話の方は年齢別に階層化されている。高学年向けになるにつれ、絵が減ってゆき、大人向けの本に近づいてゆく。
成長過程というのはそういうものだから仕方がないのだが、大人向けに近い、絵のない本が高級もしくは上等なものだと錯覚しがちだ。けれども注意していればわかるように、大人の小説本に近いような、いわゆるジュニア小説といった類いのものは、大人の小説本と同様に消費され、本屋の棚にいつまでも留まっていることはない。実際、何年か経って読み返すと、どうしようもなく古びてしまっている。
エリナー・ファージョンについて、「大時代である」という批判があるのを昔、目にしたことがある。大時代とはようするに、時代遅れもはなはだしい、という意味だろうか。しかしファージョンの作品は古びない。それというのも最初っから、うんとこさ遅れているからではないのか。むしろ時代遅れになるまいと、風俗や時代の雰囲気をまとった「現代的」児童文学の古びてゆくあり様の方がみすぼらしく、傷ましい。成熟しないまま、年老いてゆく子供みたいに。
ファージョンは劇の脚本家でもあり、民話の翻案などに手腕を発揮するが、短編などにみせるもう一つの特徴は、形式美ということだ。もちろんこれらには共通するものがあり、つまりは詩的なのである。ファージョン自身は、「自分が詩人だなんて。本物の詩人とはほど遠い」と謙遜している。詩人という概念がひどく尊敬されていた時代・環境に生きたのではあろうが、ファージョンの作品はいわゆる詩作品ではない、日常にもある「詩的なるもの」に満ちている。
古く大時代で、不変であり普遍である形式、民話などによくある、埃をかぶって固まったパターンに、ファージョンは生き生きした動き、すなわち生命を与える。その方法は、音楽の演奏に酷似する。音楽は演劇同様、舞台にかけられるたび、譜面なり脚本なりにそのときそのときのリズム、生命を吹き込む。
ファージョン短編集『ムギと王さま』には、いつとも知れぬ時代の、昔話めいたものもあれば、ストリートにいる、あるいは学校に通っている子供たちの物語も含まれている。いずれにしてもその手つきは風俗とは無縁であり、豊かさと抽象性を矛盾なく兼ね備える。
その本質を、だから最もよく伝えるものは、たとえば「天国を出ていく」といったナンセンスな歌を踏まえた形式美の、なおかつ愉快で可愛らしい物語であったり、「月がほしいと王女さまが泣いた」という、これもナンセンスなロジックが音楽的に流れてゆく作品であったりする。各作品に添えられた、繊細でみっちりとした影を作っているペン画の統一感こそが、そこからの自然な展開を支えている。
金井純
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■