フランス児童文学というのは、あまり聞かないが、もしあるとすればその最高峰がこれだろう。子供向けに書かれたとは必ずしも思わないが、少なくともある時代まで、多少なりとも教育熱心な家の本棚には絶対にある本だった。
サハラ砂漠で不時着した飛行機の操縦士と、遠い小さな星からやってきた王子との出逢い。物語全編を通して、描かれているのは誰かと誰かとの出逢いである。キツネが教えるように、人との距離感とは実に微妙なものである。ちょっぴりずつわかり合い、親しくなることもあれば、理解し合えないまま別れていくことも多い。
ただ、ここでは人の集団や社会は描かれない。サハラ砂漠の真ん中なのだ。サハラ砂漠の真ん中で、集団や社会を考えると、虚像に見えることだろう。誰かと出逢う、そのことが奇跡で、原初的なことだ。王子もまた、さまざまな星を訪ね、ここまでやってきたのだ。誰かと出逢うために。
『星の王子さま』の最大の魅力、そして子供や大人の読者がこれに「出逢った」と感じるのは、やはり作者の手になる絵を見た瞬間だろう。上手いわけではないし、ピントもずれているかもしれないし、他人はあまり褒めもしない。「絵」として観ればそうでも、この本のテキストとあいまって、それはなんとフランス的エスプリに溢れていることか。いや、いわゆるエスプリと言ってしまうと軽すぎる。神秘に満ちているようでもあるのは、やはりテキストあってのことだ。意味は遠く、絵を貫いて、星の彼方へと矢印を向ける。
星の王子さまは、自分の星に置いてきたバラのところへ帰ることにする。地球上には数かぎりなくバラの花が咲いていて、王子のバラはその一つに過ぎなかった。その平凡なバラのわがままに付き合いきれなくなって旅に出たのだったが、さまざまな出逢いを経て、帰るべきだと気づいたのである。主人公にとっては、王子との別れだ。
王子は、肉体をここに置いてゆくと言う。肉体は重すぎて、彼方の星には帰れない。それは示唆的で、本当に帰るべき場所には、魂だけで帰るしかないのだ。「大切なものは目に見えない。心で見なくちゃ」という、この本の有名な一節にも呼応する。
フランスのエスプリというのは、軽く捉えようと真摯に考えようと、ようは「無駄なものを廃する」ということに尽きるだろう。大勢の人々との関係性、冗長な文章、いざとなれば肉体をも捨て去れば、その精神は星の彼方に向かうことができる。
では唯一、最後まで捨て去ることができないものは何か。そのヴィジョンを見つける必要がある。見い出したとき、それはすでにこの世のものではないかもしれない。そこへ辿り着こうとすることは、この世を捨て去ることかもしれない。
そのようなヴィジョンの象徴として、『星の王子さま』の「絵」は置かれている。現世的なテクニックのない、ヴィジョンそのものだ。この世にいて、それらの絵に触れると、精神は星の彼方へ飛ぶ。主人公の耳に、王子の笑い声が聞こえるように。
金井純
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■